2015年3月24日火曜日

フランシス・F・コッポラとゾーエトロープ

 回転する円盤を使ったフェナキストスコープやヘリオシネグラフの次に現れたのは、ゾーエトロープ(回転のぞき絵)という装置だ。これは円盤ではなく円筒を使うのだが、周囲に細いスリットが入っている。これをターンテーブル(回転台)の上でぐるぐる回すことで、内部に配置されている絵が動画になって見える。

 円盤形の装置ではスリットと絵が常に同じ方向に移動しているのだが、ゾーエトロープではスリットと絵が必ず逆方向に動くようになる。スリットが左から右に移動すれば、対面に配置されている絵は右から左に移動する。

 この手の動画装置では、スリットによって作り出されるシャッターの解放時間を短くすればするほど、鮮明な動画が作り出せる。

 そのための方法は2つある。ひとつは装置の回転を速くすることだ。こうすればスリットが目の前を通り過ぎる時間が短くなって動画は鮮明になるが、それによって動画の再生時間も短くなってしまう。

 もうひとつはスリットの幅を狭くすることだ。スリットの幅を半分にすれば、シャッター速度は2分の1に短縮されてより鮮明な動画が得られる。だがスリット幅が狭くなればなるほど、今度は取り込む光量が少なくなって画面が暗くなっていく。

 ゾーエトロープは装置を円筒形にすることで、円盤形の装置のこうした欠点を克服した。スリットの移動と同時に絵はその逆方向に移動するので、ひとつのスリットの前を絵が通過する時間はずっと短くなる。スリットの幅は同じなので、光量不足も起きない。


 ゾーエトロープは1834年にウィリアム・ジョージ・ホーナー(1786〜1837)というイギリスの数学者が発明した。当初は「ディーダリウム」と名付けられたが、アメリカに紹介される際にゾーエトロープという名前になり、今ではそちらがよく知られている。

 円筒形の装置を作るのは少々面倒だが、中に入れる絵は帯状のものを丸めて放り込むだけなので、動画ソフトの供給という点では円盤形のフェナキストスコープやヘリオシネグラフよりかさばらない。

 映画監督のフランシス・フォード・コッポラは若い頃にこのオモチャの存在を知り、自分の映画製作会社に「アメリカン・ゾエトロープ」という名前を付けた。

 スリットを使ったアニメーションはオモチャとしては滅びたが、今でも地下鉄の窓から見える広告などに利用されることがあるようだ。

2015年3月16日月曜日

アニメーションの元祖フェナキストスコープ

 厚紙に紐を付けてクルクル回すだけのソーマトロープの後に、本格的なアニメーションを実現する玩具が登場する。それがフェナキストスコープだ。

 これは真ん中に穴のあいた円盤に何本かスリット状の穴があけてあって、スリットとスリットの間に少しずつ違う柄の絵が描いてある。この円盤を専用の棒に取り付けてクルクルと回転させれば、あら不思議、描いてある絵が動いて見えるのだ。

 ただしこの時、ただ回転する円盤を眺めているだけでは絵が動かない。円盤の絵柄を鏡に向けて、自分は円盤に付いているスリット越しに、鏡に映っている絵を眺めるのだ。

 フェナキストスコープは日本語で「驚き盤」とも呼ばれるが、たった1枚の円盤で描かれた絵が動いて見えるのは、まさに驚きの体験だ。しかしこれはなぜ動いて見えるのだろうか?

 円盤を回すと、スリットが目の前に来た一瞬だけ鏡に映った絵が見える。しかしそれはすぐに円盤に遮られて見えなくなり、次のスリットが目の前に来た時にはまた一瞬だけ次の絵が見える。しかしそれはまたすぐに遮られて……という繰り返し。


 円盤に等間隔にあけられたスリットが、目の前で、開く→閉じる→開く→閉じるを繰り返す。それに合わせてスリットの向こう側にある絵も、スリット1つ分ずつ移動して次の絵に変わっていく。こうして穴のあいた円盤が、動画再生に必要な間欠運動を実現しているのだ。

 フェナキストスコープはベルギーの科学者ジョセフ・プラトー(1801〜1883)が1831年に発明したと言われている。同時期にオーストリアのサイモン・フォン・スタンプファー(1792〜1864)も同じような装置を発明したそうだ。

 フェナキストスコープを解説した画像を見ると、同一の軸状に2枚の円盤をセットしたものもみつかる。これはヘリオシネグラフという装置なのだが、仕組みとしては鏡に映すフェナキストスコープと同じだ。鏡が身近にあるなら円盤が1枚で済むフェナキストスコープの方が単純だと思うが、大量生産の工業製品として考えた場合は、円盤を2枚使う方が有利だったのかも知れない。

 おそらく工業品として作った場合、一番手間がかかるのは円盤に細いスリットをあける工程なのだ。1枚の円盤に絵とスリットがあるものは、絵を描いた円盤に全部スリットを作らなければならない。学校の実習教材などで円盤をひとつだけ作るならそれでもいいだろうが、工業製品として量産するとなればどうだろう?

 円盤を2枚使うヘリオシネグラフは、スリットの付いた円盤は装置に取り付けたまま、絵の描かれた円盤だけを交換して楽しんだのだろう。絵は印刷すればいいわけだし、円盤の中心に穴をひとつあけるだけならたいした手間ではない。

 フェナキストスコープは単純な装置なので、厚紙を使って自作することができる。作るなら円盤1枚を鏡に映すタイプが簡単だ。この程度のものでも、自分で作ってみるといろいろなことがわかって面白い。

 まず鮮明な動画を得るためには、スリットの幅は狭い方がいい。スリットの幅が狭いほど、その向こう側の絵はシャープに静止して見える。しかしスリットが狭くなるというのは、カメラで言えばシャッタースピードが速くなるのと同じで、見える絵は暗くなる。暗くなれば鮮明さはなくなるので、このあたりのバランスを考えなければならない。

 もうひとつ大事なのは、円盤の絵が描かれていない方(接眼側)を黒く塗りつぶしておくこと。円盤をボール紙で作るなら、片側には黒の画用紙などをピッタリ貼り付けるとか、絵の具やマジックで塗りつぶすとかしておかなければならない。

 人間の目は対照の明るさに合わせて瞳の大きさを変え、自動的に光量を調節する。円盤の接眼側が白いとそれに合わせて瞳の大きさが調節されてしまうため、スリットの向こうは暗くなって何も見えなくなってしまう。目の前で円盤を回転させても、目に見えるのは回転する円盤のこちら側だけになってしまうのだ。(上の写真にあるヘリオシネグラフでも、スリットがある側の円盤が黒くなっているのがわかる。)

 スリットの数は理屈の上では多ければ多いほどいいはずだが、あまり大きくなると円盤自体を大きくしなければならない。手作り工作ならスリットは10〜12ぐらいで十分だと思う。分度器で等間隔に分割するなら、10、12、15ぐらいがキリがいいのかも……。

 スリットの位置は円盤のどこにあってもいい。学校の工作などで作るなら、円盤の円周上から切り込みを入れるようにしてスリットを作った方が、ハサミで作業できて楽だと思う。商品化されているフェナキストスコープやヘリオシネグラフでディスクの内周に穴があけられているのは、その方が円盤が丈夫で長持ちするからだと思う。円周上に切れ込みを作ると、そこから曲がったり破れたりしそうだ。

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2015年3月15日日曜日

ル・プランスを巡るミステリー

 本当の発明者にまつわる伝説というのがある。「あれはダレソレの発明だと言われているが、本当は別のナニガシが発明したのだ」という類の話だ。例えば電話の発明者としてはグラハム・ベルの名前が知られているが、特許出願で彼にたった2時間遅れたばかりに発明者になれなかったイライシャ・グレイという男がいたこともよく知られている。

 発明というのは先行する技術の積み重ねの上に、それを組み合わせて実現される。だから技術が出揃ったところで「あれとこれを組み合わせればこうなる!」というアイデアをほとんど同時に複数の人間が思いつくことはあり得るし、そこからヨーイドンで研究がスタートして、ゴールにほとんど同時に何人もがもなだれ込んでいくこともあり得るわけだ。

 映画の発明についても、これと同じようなことが起きた。映画にまつわる最初の主要な特許を取得したのはエジソンだが、彼に先んじて映画の仕組みを実現していた先駆者も存在した。ルイ・ル・プランス(1841〜1890)はそんな映画の先駆者のひとりだ。

 生まれたのはフランス。父親が銅板写真の発明者ダゲールの友人だった関係で、ル・プランスは幼い頃から写真術に親しんでいたという。成人後はイギリスに移住して工業製品のメーカーに勤めるが、写真を応用した製品やパノラマの制作も行った。やがて彼は「動く写真」の開発に取りかかる。

 パノラマというのは巨大な写真や絵画を360度ぐるりと配置して、中心に立った観客に鑑賞させるというもの。映画興行の先駆として、映画史の本には必ず出てくるものだ。写真術、パノラマ、そして映画……。ル・プランスの生涯は、映画前史をそのままなぞっている。

 彼が発明した最初のカメラは、16個のレンズで16コマの連続写真を撮影するものだった。しかしこれは撮影するたびに視点がずれてしまうので、それだけでは映画にならない。1887年にはこれを改良して1つのレンズで連続写真が撮影できるようになった。こうなるともう、ほとんど映画そのものを発明したと言えるだろう。

 ル・プランスが1888年に撮影した映像が残っている。記録時間はほんの数秒間だが、映像自体は結構鮮明。これはもうほとんど映画と言っていいだろう。



 1990年にル・プランスはこのカメラを売り込むためにアメリカに渡り、その帰路にフランスで列車の中から謎の失踪を遂げる。同時期にエジソンも映画の研究をしていたので、ル・プランスに先を越されたエジソンが彼の発明品に嫉妬して暗殺したのではないか……といった説もあるが、真相はいまだによくわからない。

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2015年3月14日土曜日

ソーマトロープと残像現象

 映画が発明されるよりもずっと昔……、といってもさほど大昔というわけではなく、せいぜい半世紀ぐらい前のこと。ソーマトロープ(Thaumatrope)という玩具が流行したことがある。

 これは2本の紐を取り付けた厚紙の表裏に、異なった絵が印刷されているもの。紐を両手に持ってヨリをかけクルクル回すと、表裏に書かれている絵がひとつに見えるのだ。表に鳥かご、裏に鳥の絵が描かれていれば、クルクル回すことで鳥が鳥かごの中に入る。馬と騎手が別々に描かれていても、クルクル回せば馬に乗った人になる。

 この玩具を誰が発明したのかが、じつは良くわかっていない。Wikipediaにはイギリス人医師のJohn Ayrton Paris、天文学者ジョン・ハーシェル、地質学者William Henry Fitton、あるいはチャールズ・バベッジといった名前が出ているが、おそらくこの仕組み自体は彼らよりずっと以前から知られていただろう。いずれにせよ簡単な仕組みの玩具なので、単純な絵であれば手作りすることも可能だ。


 (YouTubeの動画だと絵の連続はギクシャクしたものになるが、実物を目で見るともっと滑らかに絵がつながるのがわかると思う。動画は連続した絵を細かな静止画に分けて記録しているので、回転速度によっては表裏の絵がうまく交互に見えないのだ。)

 この玩具は人間の目の「残像現象」を利用している。人間の目は信号を遮断されても、その直前に見えていた画像を見えているものとして知覚している。少なくとも短時間の画像の中断をあまり気にしない、大らかで大ざっぱな仕組みになっているのだ。

 これが人間の目や神経の生理的な反応によるものなのか、人間の脳がそのように反応しているのかは学者によっても意見が分かれるようだが、僕は「その両方なんじゃないの?」と思っている。人間の神経系の働きは電気信号と化学反応の組み合わせなので、スイッチを入れて電球が光るような感度の良さは持ち合わせていない。いずれにせよ多少のタイムラグは起きるわけで、それを超える動きは目で追いきれなくなってしまう。

 それ以上に重要なのは脳の働きだ。人間の脳は数分の1秒ぐらいなら、視覚信号の中断を自然に無視するようになっている。おそらくそうしている理由は、人間がまばたきをしているからだと思う。人間は毎日数え切れないほどのまばたきをしているのだが、それが気になったら生活できない。

 まばたきとまばたきの間が何秒なのかは知らないが、人がまばたきをする前と、まばたきを終えて目を開くまでの間には、必ず数分の1秒の視覚刺激の中断があるはずだ。でも人間の脳はその中断を無視して、まばたき前後の視覚情報を頭の中で自動的につなげてしまう。

 人間の目は現実そのものを観ているわけではない。目から入ってくる刺激はまばたきによって数秒ごとに寸断されているのだが、人間はそれをひとつながりの情報として処理するようになっている。

 ソーマトロープはアニメーションや映画のルーツのひとつと言われているが、ここにはまだ「動き」はない。細かな静止画の連続を「動き」として知覚するためには、残像現象ではない別の要素が必要になるのだが、それはまた次回。

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2015年3月9日月曜日

『アメリカ交響楽』のヘイゼル・スコット

1945年に作られたガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』には実在のショービジネス関係者が大勢実名で登場しているのだが、その中に紛れてやはり実名で登場するのがヘイゼル・スコット(1920〜1981)だ。

 フランスに渡ったガーシュウィンがナイトクラブを訪れると、そこでピアノを演奏していた彼女が即興でガーシュウィン・メドレーを演奏しながら歌いまくる。

 これはまったく歴史的な事実とは無関係な、映画ならではの創作シーンだろう。ガーシュウィンは1937年に亡くなっているが、その時スコットは17歳。スコットは若くしてショービジネスの世界で成功していたので、ガーシュウィンとどこかですれ違っていそうな気もするが、映画に出てくるような劇的なものではなかったと思う。

 おそらく劇中にミュージカルやレビュー、クラシック演奏のシーンはあってもジャズの場面がほとんどないので、それを補うために彼女の出演シーンを作ったのだと思う。彼女もガーシュウィンと同じで、クラシックとジャズの両方で活躍する演奏家だったからだ。


 IMDbによれば、彼女は1943年から45年にかけて5本の映画に出演している。すべて彼女自身の役としての出演だ。貼り付けてある動画は1943年の映画『I Dood It』からの出演シーン……だと思う。

 本当は『アメリカ交響楽』から引用したかったのだが、YouTubeでは該当する動画を見つけることができなかった。でもこれを観るだけでも、彼女の卓越したテクニックと独特のフィーリングを見て取れることができると思う。

 ヘイゼル・スコットが女優でもないのに当時5本の映画に出演しているのは、彼女に当時それだけの人気があったからだ。1936年にはラジオのレギュラー番組を持っていたし、1939年にはレコードデビューも果たしている。だがテレビ以前の時代、人々が彼女の動く姿を観ようとすれば映画に頼るしかなかったのだ。映画会社はそんな庶民の要望に応える形で、彼女を映画にゲスト出演させた。『アメリカ交響楽』への出演もそのひとつだったのだろう。

 だが彼女の映画出演歴は、この『アメリカ交響楽』で一度ストップする。映画会社が彼女にステレオタイプな黒人像を押し付けはじめたことに反発し、映画の世界から距離を置いたようだ。彼女はテレビの世界に可能性を見いだす。1949年から何本かのテレビ番組に出演し、1950年には自分の名前を冠したテレビ番組「ヘイゼル・スコット・ショー」も持つことができた。これはアメリカの黒人としては初の快挙だ。

 だがここで彼女は赤狩りに引っかかり、さらに公民権運動にコミットしたことで煙たがられた。せっかくつかんだテレビの仕事は奪われ、彼女はヨーロッパに活動拠点を移さざるを得なくなってしまった。彼女はヨーロッパで歓迎されたが、身の上は政治亡命者のようなものだのかもしれない。

 彼女が再びアメリカに戻ったのは、1960年代後半になってからだった。

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2015年3月6日金曜日

リュミエール兄弟は劇映画の元祖だった

 映画史では一般的に、リュミエール兄弟の作品はドキュメンタリーの元祖で、メリエスの作品は劇映画の元祖だと言われる。

 だがリュミエール兄弟の作品の多くは、純粋なドキュメンタリーというわけではない。日常を切り取ったスケッチ風の作品も確かにあるが、あらかじめ映画の撮影時間を計算し、入念に準備した上で撮影している劇映画も多いのだ。

 有名な作品のひとつに「水をかけられた撒水夫」がある。ホースで庭に水を撒く男を見かけた少年が、ホースを踏みつけて水を止めてしまう。不思議に思った男がホースをのぞき込むと少年はパッと足をどけ、水を撒いていた男は水浸しになってしまう……。


 こんなものは当然だが偶然に撮れるはずがないのであって、明らかに演出された喜劇なのだ。この作品は人気があったようで、シネマトグラフのポスターにもこの作品が描かれている。

 またこの作品は何度もリメイクされているため、どれが最初に撮られたオリジナルなのかが良くわからない。なぜリメイクされるのかと言えば、当時はプリントを複写する手間も、屋外で同じような場面を撮影し直す手間も、あまり変わらなかったからだ。同じように、リュミエール最初の作品として有名な「列車の到着」や「工場の出口」も何度もリメイクされ、どれが最初の上映会で使用されたバージョンなのかがわからない。これ自体が今や、映画史のミステリーになっている。

 「水をかけられた撒水夫」は演出があからさまなのだが、一見演出に見えないけれど、じつな入念に演出されているという作品がリュミエール作品には多い。当時のシネマトグラフはカメラの中に30秒か1分程度のフィルムしか入れられない。やり直しなしの一発撮りで、この30秒〜1分の中に必要なすべてを入れてしまわなければならない。

 例えば「工場の出口」のあるバージョンでは、工場の門扉が開き、工員たちが出てきて、門扉が閉まるまでがピッタリひとつのカットに中に納められていたりする。こんなものは撮影しながら、「はい扉を開いて!」「どんどん出てきて!」「はい、扉閉める!」などと指示を出している様子が目に浮かぶようではないか。


 僕が好きな作品に「雪合戦」がある。これは画面の左右で二手に分かれた男女が雪玉をぶつけ合っていると、道の向こうから自転車に乗った男が現れて雪合戦に巻き込まれ、カメラの前で自転車から転がり落ちる。男はあわてて自転車を起こし、身体をすくめながらもと来た道を引き返していく……という作品だ。


 男が自転車から転げ落ちる位置とタイミングは、まさに入念に計算されつくしている。この位置があと2メートルも前か後ろにずれれば、この作品は成立しなくなってしまうのだ。

 リュミエール兄弟の初期の映画には、1分という短い時間の中で何をどう描くかというアイデアが詰め込まれている。ショート動画でいかに人々の耳目を集めるかに心血を注いでいるという意味で、リュミエール兄弟はユーチューバーの元祖みたいな人だったのかもしれない。

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2015年3月5日木曜日

アメリカ初の西部劇「大列車強盗」

 映画が発明された当初、映画表現技術の改革はヨーロッパで着々と進み、アメリカはそれに一歩後れを取っていた。だがそれを一気に巻き返したのが、エジソン社で映画を撮っていたエドウィン・S・ポーター(1870〜1941)だ。

 もともと電気技師だったポーターは1898年に最初の映画撮影を試み、翌年にはエジソン社で映画を作り始めた。彼は当時の映画の最新技術を素早く吸収しながら、猛烈なスピードで映画を量産していく。

 当時の映画は1作品15分かせいぜい30分ぐらいの短編ばかりだが、ポーターはそれを年間数十本ペースで撮り続けている。その中でさまざまな試行錯誤をしながら、新しい表現技法を開拓していった。

 彼の代表作として映画史に残るのは、1903年に撮った2本の作品だ。

 1本目は「アメリカ人消防士の生活」という作品で、消防士が燃え盛るアパートから女性を救出する様子を描いたアクション映画だった。これはUSJのアトラクション「バックドラフト」の入口で、行列している客のために流すビデオにも引用されている有名作品だ。


 映画を観るとこの作品には合成があり、クローズアップがあり、ロケーション撮影あり、セット撮影ありで、当時の映画撮影技法がふんだんに盛り込まれ巧みに組み合わせてあることがわかる。逃げ遅れた女性を救出するためアパートに飛び込む消防士の姿を、部屋の外と中から切り返しショットで撮影しているが、これが映画史上初のカットバック編集ということらしい。(でもこれ、カットバックと言うほどのものなのかなぁ……。)

 もう1本はアメリカ映画史上初の西部劇「大列車強盗」だ。これも当時ポーターが持っていた映画表現技術の集大成だが、合成や置き換えなどのトリック撮影を駆使して、猛スピードで走る列車の中での活劇や、強盗たちの凄惨な殺人シーンなどを描いている。


 強盗たちが列車を襲う様子を描く場面と同時並行して、列車が強盗に襲われたことを知らせる技師や強盗たちを追う男たちの姿を描いているが、これが並行モンタージュ(クロスカッティング)になっているのが最大の新しさだろうか。 映画のラストシーンで無法者がスクリーンの中から観客に向かって銃をぶっ放すのも、当時としてはかなりショッキングな演出だったようだ。(たぶん映画館の効果音係が、このシーンに合わせてスリッパを床にたたき付けたり、紙袋を破裂させたりして発砲音を作り出したんだと思う。)

 それ以外にも、列車が事務所を襲撃する場面の背後に侵入してくる列車を合成したり、列車の上の格闘から人間を一瞬にして人形にすり替えたり、金を奪って逃げる男たちの姿からカメラがパンすると逃走用の馬が隠してあるなど、エジソンが映画を発明してから10年で映画技術がここまで進歩していることに驚かされる。

 もちろん現在の目から見て稚拙に思えるところもあるのだが、「この場面は今でも同じように撮るしかないだろう」とか、「このカメラアングルこそがベストポジションだ」と思われる優れたシーンも多い。

 ポーターは1910年頃にエジソン社を退社して1915年までは他社で映画を監督していたが、その後は映画界を去っている。メリエスも同じだが、映画史初期の大物たちは、その多くが1920年代から30年代の映画全盛期を目の前にして映画界を去ってしまう。だが彼らが映画にもたらした功績は、今後も決して忘れられることがないだろう。

 ポーターのもとで映画俳優として映画界入りしたのがD・W・グリフィスなのだが、彼の話はまた別の機会に……。

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2015年3月4日水曜日

クローズアップの発明と映像表現の進化

 映画が発明された19世紀の終わり頃、映画に写るものは物珍しいものでなくても構わなかった。人々はスクリーンの中で、日頃見慣れた風景がただ動くというだけで大喜びしていた。

 リュミエール兄弟は自分たちが働く工場の出口を撮影した。駅のホームに汽車が入ってくる場面を撮影した。家族で外出する様子や、赤ん坊の様子を撮影した。カメラをはじめて手にした子供が身の回りのものを片っ端から撮影するように、手当たり次第に自分たちの目に写るものを撮影した。

 この頃の映画は、カメラの中に装填できるフィルムがだいたい30秒から1分程度。フィルムを入れるとその時間を目一杯使って映像を撮りきってしまう。フィルム1本分が1作品で、カメラは固定され、ワンシーンでワンカット。単純なものだ。

 だが映画発明の数年後には、撮影済みのフィルムをつなぎ合わせる技法が生み出される。複数のシーンをつないで、少し長い「おはなし」を作ることができるようになった。カメラポジションを工夫して、カメラを被写体に極端に近づけるクローズアップの技法も考案された。

 クローズアップの技法を使ったもっとも初期の映画に、ジョージ・アルバート・スミス(1864〜1959)の「おばあさんの虫眼鏡」(1900)という作品がある。この作品では子供がおばあさんの虫眼鏡を通して見た世界が、画面に大写しになって現れる。クローズアップの技法はまず、「虫眼鏡で拡大した風景」という理由を添えて観客の前に差し出された。


 おそらくスミスは「虫眼鏡で見る」という説明がなければ、観客がクローズアップに戸惑うと思ったのだろう。ひょっとしたらスミス自身が、クローズアップの異様さに驚いていたのかもしれない。

 だがカメラを被写体に近づけるクローズアップの技法は、あっという間に観客に受け入れられたようだ。「おばあさんの虫眼鏡」を撮ったスミスも、このあとは説明的な描写なしにいきなりクローズアップのショットをつなぐようになる。

 エジソンのキネトスコープが登場したのは1893年。リュミエール兄弟のシネマトグラフが1895年に登場している。それからほんの数年で、映画の表現技法は飛躍的に進化する。

 この時代の映画ばかりを集めた「The Movies Begin」というDVD-BOXがある。これはエミール・レイノーの連続写真からD・W・グリフィスまでを年代順に集めたアンソロジーなのだが、1890年代から1900年代初頭までの映画表現技法の変化は荒削りながら目覚ましいものがある。

 この変化は、生まれたばかりの子犬があっという間に大きくなるのにも似ている。これほど劇的な変化を、映画はもう二度と経験することはないだろう。

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2015年3月3日火曜日

リュミエール兄弟の伝説

 映画の誕生日と言われている日がある。

 1895年12月28日、パリのキャプシーヌ通りにあるグランカフェの地下で、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの有料上映会が開かれたのだ。これが世界で初めての行われた、スクリーン上映式映画の初興行だった。

 映画装置自体はこれ以前にエジソンのキネトスコープが実用化されて、世界中に販売されていた。リュミエール兄弟の工夫は、動画を小さな木箱から外に出したことにある。幻灯機の原理を利用して、フィルムに記録されている動画をスクリーンに拡大投影できるようにした。これが我々の知っている「映画」の直接の祖先になった。

 リュミエール兄弟の父アントワーヌ(1840〜1911)はもともと肖像画家だったが、写真術に出会って写真技師に転身した人物だ。写真がなかった時代には、画家が依頼人の注文に応じて肖像画を描いた。だが客が求めているのは芸術品ではない。今生きている人の面影を、何らかの形で留めておきたいという欲求があっただけだ。

 こうした客たちは、写真術が普及していくとあっという間に肖像画から写真へと移行する。何と言っても写真は肖像画以上に、対象となる人物をそっくりに描くことができる。ここでも写真に求められていたのは芸術性ではなかった。古い時代の写真には、写真の上に顔料で着色したものがあったりするが、あれも写真が「絵」の代用品として用いられていたことのなごりだろう。

 アントワーヌが写真師になった当時、写真技師はカメラも感材も自分の手で作らなければならなかった。しかし19世紀後半に乾板写真が発明されると、これを大量生産してプロやアマチュアのカメラマン向けに販売する業者が現れた。アントワーヌはこの流れに乗って、ガラス乾板の工場を作り実業家として成功を収める。

 兄のオーギュスト(1862〜1954)と弟のルイ(1864〜1948)は、機械や化学についての技術を学んで父の会社を引き継いだ。父は独学だったが、兄弟は一流の学校で専門教育を受けている。兄弟にとって最初のヒット商品は、高感度の写真感材「エチケットブルー」だった。兄弟はさらにカラー写真や立体写真の研究に向かう。

 映画に最初に出会ったのは、父のアントワーヌであったらしい。キネトスコープの存在を知った彼は息子たちに映画の研究をしてみることを薦め、兄弟はそれに従って映画についての研究を始めた。1894年頃のことだ。驚くことに、キネトスコープはあっという間に完成してしまう。兄弟はこれで自分の周囲の風景や仲間たちの映像を撮り始めるが、すぐに飽きたのか再び自分たち本来の研究に戻って行った。

 1895年12月のシネマトグラフ上映会は、父アントワーヌが現場で仕切り兄弟はノータッチだった。上映会直後にシネマトグラフを譲ってほしいと申し出たジョルジュ・メリエスに、「映画に未来はない」という有名な言葉を語ったのはアントワーヌだった。


 確かに映画に未来はなかった。少なくともリュミエール兄弟にとっては……。

 リュミエール社はその後、映画機材の販売やレンタルを行うようになる。機材を売るだけでなく、上映用のフィルムも販売した。最初は兄弟が撮影していたが、やがて契約カメラマンを世界中に派遣して映画を撮影させ、それを世界を相手にカタログ販売するようになる。日本にもリュミエール社の撮影技師がやって来て、当時の日本の風景や風俗を撮影している。

 しかしそれからたった数年後、リュミエール社はすべての権利を他社に譲渡して映画事業から撤退した。多くの業者が参入して当初ほど映画ビジネスにうま味がなくなったのかもしれないが、一番の理由はリュミエール兄弟自身が映画ビジネスにさほど興味がなかったことだろう。

 映画は工場で生産したカメラや映写機などのハードを売る商売から、上映用のフィルムという映像ソフトを作る商売に変わりつつあった。リュミエール兄弟はカメラや映写機、生フィルムなどの「映画機材」でビジネスをする実業家であって、映像ソフトで大衆の心をつかむ興行師ではなかった。映画ビジネスから撤退した後、リュミエール社は世界初のカラー感材「オートクローム」を発売している。リュミエール兄弟にとっては、映画ビジネスよりもこうした新しい技術の方がよほど面白く、やりがいのある仕事だったのだろう。

2015年3月2日月曜日

ジョルジュ・メリエスと映画のファンタジー

 ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)は、映画史の中で「世界初の」という形容詞がいくつも付けられる人物だ。

 彼は世界初の職業的な映画監督であり、世界初の特撮映画の作り手であり、世界初の映画スターであり、共演者を世界初の女性映画スターにし、映画製作のために世界初の映画撮影スタジオを作っている。

 彼は大きな靴工場の息子に生まれたが、若い頃から奇術に夢中になり、工場の経営は兄たちに任せて自分は奇術師になった。靴職人だった父の血を引いてか手先が器用で創意工夫の才もあり、奇術のネタをあれこれ工夫するのが好きだった。

 奇術は19世紀に人気のあったエンタテインメントだが、メリエスの時代にその全盛時代は終わっていた。メリエスは19世紀末に活躍した、最後の大物奇術師でもあるのだ。親の遺産分与を受けて奇術専用の劇場を買い取り、そこで趣向をこらした出し物を演じて客を楽しませた。

 彼が最初に映画に出会ったのは1895年12月28日のことだった。パリのグランカフェで行われたリュミエール社主催のシネマトグラフ披露会、メリエスも招待されていたのだ。メリエスは奇術師なので、それ以前から幻灯についての知識はある。だが幻灯の中の写真が動き出したことに彼はびっくりした。「この発明品を売ってくれ!」と申し出たメリエスに、リュミエール側が「映画に未来はない」と言って断ったエピソードは、映画史の中の伝説になっている。

 シネマトグラフが手に入れられなかったメリエスは、ロンドンの発明家が同じような装置を作っていると聞くと、まだ未完成だったその装置を購入してきた。これを自分で改造して、実際に撮影と映写ができるように仕上げてしまったのだ。

 メリエスはこの機械を使って、自分でも映画を撮り始める。最初に作ったのは「列車の到着」や「カード遊び」といったリュミエール作品のコピーと、街の風景をそのまま撮影した短いフィルムだ。どれも単純なものだが、これが奇術を観に来た客たちには大評判だった。彼は映画作りにのめり込んで行く。

 メリエスは映画を作りながらストップモーションや多重露光などのトリック撮影技術を編み出し、これを洗練させて他に類をみないファンタジー映画を次々に作った。その集大成が1902年の「月世界旅行」だ。複数のシーンで構成された15分ほどの「長編映画」は大評判となり、世界中で無数の海賊版プリントが出回ったという。


 メリエスにとって映画は奇術の延長だった。彼は映画という新しい技術を使って、ステージ上で演じていた夢あふれる空想の世界を描き出した。だがこうしたメリエス流のファンタジー映画は、やがて少しずつ観客から飽きられてしまう。観客は映画の中に、よりリアルで現実に近い描写を求めたからかもしれない。

 メリエスの創作意欲は衰えなかったが、彼の創作の夢の広がり以上に、20世紀初頭の映画産業は猛スピードで拡張して行った。巨大ビジネスになった映画はさまざまな契約でメリエスを縛り、ビジネスよりも自分の芸術に熱を上げるメリエスは取り残されてしまった。第一次大戦前に彼の映画製作はストップし、戦後にスタジオも人手に渡ってしまう。

 晩年のメリエスの姿がスコセッシの映画『ヒューゴの不思議な発明』(2011)に登場するが、年老いたメリエスが映画の仕事を離れ、鉄道駅の売店でオモチャを売っていたのは事実だ。映画は1930年代に黄金期を迎えるが、その頃になって映画人たちはようやく大先達のメリエスが生活に困窮していることに気づいた。彼はパリ郊外に作られた映画業界人向けの老人ホームに招かれて余生を送ることになった。

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2015年3月1日日曜日

♪エジソンは、偉い人。そ〜んなの〜常識♪

 映画は蓄音機や白熱電球と並んで、アメリカの発明王トーマス・エジソン(1847〜1931)の代表的な発明のひとつとされている。確かにエジソンの研究所で誕生したキネトグラフは世界最初の映画撮影カメラであり、キネトスコープは世界最初の映画再生装置だった。

 だが映画の歴史に詳しい人なら、エジソン研究所で実際に映画の開発を担当したのは、彼に雇われたウィリアム・ディクソン(1860〜1935)という技術者だということを知っている。エジソンは自社従業員の研究成果に、自分の名前をつけて売りだしたのだ。

 これは別に、エジソンが自分の部下の発明を盗んだわけではない。エジソン以前の時代には、天才肌の発明家がひとりでコツコツと新しい発明に挑んでいた。エジソンもそうしたところから出発したはずだ。だが彼はその後、自分の研究所に大勢の研究者や技術者を雇い入れ、その知識と経験と実験成果を共有し合うことで多くの発明を生み出すようになった。エジソンは発明を「個人技」から「集団作業」に変えた。このスタイルは、その後の企業内研究開発などにも引き継がれる。映画もそこから生み出されたものだ。

 エジソンは自身の最初の発明品である「電気式投票機」がまったく売れなかったことから、「売れる発明でなければ意味が無い」というポリシーを持っていた。発明は実用品でなければない。市場ニーズがあってこそ、発明には価値がある。だからエジソンは新しい機会を発明するだけでなく、その発明品を作ったビジネスも同時に考える。

 映画再生装置であるキネトスコープについては、キネトスコープパーラーという商売を生み出した。写真機材メーカーを営むジョージ・イーストマンと協力して、キネトスコープ用に作った35mmフィルムを規格化された商品として大量生産した。これがやがて、スチルカメラ用の35mmフィルムにも転用される。映画の特許を保護するために、他の特許保有者と協力して特許管理会社を作り、無断で特許を侵害する海賊業者を取り締まった。


 映画の発明はエジソンだけの功績ではない。だが映画を「ビジネス」に結びつけた最初の人物はエジソンだと思う。エジソンがいなければ、映画は写真から派生した珍奇な発明品で終わってしまったかもしれない。巡回興行師が持ち歩いて各地の見世物小屋を巡業する、新手の幻灯興行で終わってしまったかもしれない。

 その証拠にエジソン以外の映画の発明者たちは、あっという間に映画の世界から撤退してしまうのだ。動く写真に熱中した発明家たちは、カメラや映写機を作ることで満足し、それを使って何か事業を行おうとはしなかった。彼らの発明は、いわば趣味の世界だ。シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟も映画事業は他人に任せていたが、それもたった数年で一切合切を他社に売却している。リュミエール兄弟は映画に興味はあっても、映画ビジネスには興味を持たなかった。

 映画をビジネスにしようとした数少ない例外の中に、ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)がいる。だがメリエスの映画事業は彼自身が一手に管理できる範囲に限られ、それを超えたところで自律的に成長して行く事業に育てることはできなかった。映画の発明者の中で誰よりも早く「映画の商業性」に着目し、事業展開しようとしたのはやはりエジソンだと思う。

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2015年2月28日土曜日

動画の発明者エミール・レイノー

 毎年10月28日は「国際アニメーションデー」として、国際アニメーションフィルム協会やその各国支部でさまざまなイベントが行われる。これはフランスの発明家エミール・レイノー(1844〜1918)が、1892年に「テアトル・オプティック」というアニメーションの興行をはじめたことにちなんだものだ。

 1892年は「世界最初の映画興行」と言われるシネマトグラフの上映会(1985年12月28日)より3年前になる。エジソンはこの時点でキネトスコープを作っているが、一般へのお披露目はまだだった。つまりテアトル・オプティックは世界で最初の「動く絵」の興行だったのだ。

 しかしこれが「映画」とは呼ばれず、「世界初のアニメーション」であるのには理由がある。テアトル・オプティックで動くのは写真ではなく、手で描いた絵だった。また絵を動かすための原理も、後の映画とはだいぶ異なっている。テアトル・オプティックは少しずつ異なった絵を連続投影することで動きを生み出すという意味で、紛れもなくアニメーションだ。しかしそれはまだ映画ではなかった。

 エミール・レイノーやテアトル・オプティックの名前は映画史の本には必ず出てくるのだが、それが映画とどのように違うのかが僕はよくわからなかった。しかし今は便利な世の中で、YouTubeにテアトル・オプティックの原理を解説した動画がアップロードされている。


 テアトル・オプティックも複数の画像を帯状につなぎ、それを次々に映写機の前に送り出してスクリーンに投影している点では映画と変わらない。だがこの帯がただ映写機のレンズの前を通り過ぎたのでは、スクリーンに投影した画像も流れてしまう。動画を再現するためには、スクリーンに映し出した画像を1コマずつ静止させ、次のコマと入れ替える際の画像のブレを観客の目から隠さなければならない。

 映画はこれを、フィルムの間欠運動とシャッターを利用して実現している。

 間欠運動というのは、動く→止める→動く→止めるという動きのこと。フィルムにはそのために穴が空けられていて、そこに映写機の爪や歯車をひっかけて、映写機のレンズの前に1コマずつ正確に送り込み静止させる。これは上映だけでなく、撮影用カメラでも同じことだ。「動く→止める→動く」という動作を繰り返すため、映写機やカメラからはカチャカチャという独特の音が発生する。(フィルム送りが高速になればジーッという音になる。)

 フィルム1コマ分の映写が終わったら、映写機は素早く次のコマを送り出して映写する。コマとコマが移動している間は、シャッターが光源の光をさえぎって画面を暗くしてしまう。この時間が短ければ、人間の目の錯覚で暗闇を意識することはない(残像効果)。次のコマがレンズの前に来たら、シャッターが開いて次のコマが映写される。シャッターはフィルムを送る装置と連動していて、フィルム移動時に正確に光源をさえぎるよう調節されている。

 これが映画の仕組みだ。だがエミール・レイノーは映画とはまったく別の方法で、この間欠運動を実現させた。

 彼は鏡を使ったのだ。鏡を使って連続した絵から動きを作り出す方法は、レイノー自身がプラキシノスコープという装置で既に実現していた。プラキシノスコープは装置の周辺を取り囲んだ数人でしか見られないが、レイノーはこれをスクリーン投影式に改造した装置も作っている。

 テアトル・オプティックとは、要するにバカでっかい投影式プラキシノスコープなのだ。プラキシノスコープは円筒の内側に配置した、せいぜい10枚程度の絵を動かすことしか出来ない。しかし絵を長い帯状にして鏡の動きと連動させて次々送り出せば、理屈の上では際限なく長い動画を生み出すことができる。

 プラキシノスコープでもテアトル・オプティックでも、鏡の継ぎ目で動画が一瞬だが途切れるところがある。動画がちらつくフリッカーが起きるのだ。そのためテアトル・オプティックでは動画の背景をスライドで静止画像として映写し、プラキシノスコープと同じ方式で生み出した動画と二重投影しているようだ。

 映画の技術を知ってしまった後になれば、エミール・レイノーがこれほど大がかりで手間のかかるものを作ってしまたことがバカバカしく思える。しかしレイノーは自分が手掛けてきて、実績のある技術を使い続けただけなのだ。テアトル・オプティックは映画が発明されて人気を博した後も、1900年まで興行が続けられたという。

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2015年2月27日金曜日

映画発明の寸前まで行った男

 エドワード・マイブリッジ(1830〜1904)は映画の先駆者とされるイギリス出身の写真家だ。20代の頃からはアメリカに渡って仕事をしている。

 1870年頃、当時の知識人たちの間にひとつの論争があった。それは疾走する馬の脚が、一度に全部地面から離れることがあるか否かというものだ。人間の肉眼ではこれがまったくわからない。そこで写真の出番となり、マイブリッジがこれに挑むことになった。

 当時の写真家は、写真機材一式を自ら作る技術者だ。カメラも自分で作り、感材も自分で調合する。マイブリッジは高感度の感材を調合して、走る馬が静止しているかのごとく撮影できるようにした。さらに馬が走るコースに並走してカメラを10数台並べ、コースに細い糸を張ってシャッターと連動させた。馬が走ってこの糸を切断すると、それに合わせて次々にカメラのシャッターが切れる。

 こうしてマイブリッジは馬が走る様子を連続写真として撮影することに成功し、馬はどう走るかという長年の論争に決着を付けたのだ。馬は有史以前から人間の身近な動物だったが、マイブリッジが連続写真で撮影するまで誰もその走り方を知らなかった。マイブリッジの発明は、人間の目では決して見えない世界を写真技術によって解明する革命的なものだった。


 マイブリッジ自身は映画を発明しようとしたわけではない。だがマイブリッジは自分の連続写真を当時既にあった「絵を動かすオモチャ」と組み合わせることで、「動く写真」を作り出すことに気づいた。こうして生まれたのがゾープラクシスコープという装置だが、これは大きな円盤に配置された連続写真をループさせるというもので、1回転でせいぜい数秒の動画しか生み出すことができない。しかしここではじめて「動く写真」が生み出された意義は大きい。


 マイブリッジはその後も自作の写真装置でさまざまな動物を撮影し、やがて人間の動きも撮影するようになった。彼の連続写真は「映画前史」として歴史的な価値があるだけではなく、今でもアニメーターたちの参考資料として現役で使われ続けている。

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2015年2月26日木曜日

ウィリアム・ディクソンと動く写真

 発明王エジソン(1847〜1931)のもとで映画の研究をしていたのは、スコットランド人の発明家ウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソン(1860〜1935)だ。

 エジソンは当初自分の作った蠟管型の蓄音機と同じように、筒型のシリンダーに連続写真を巻き付けるように配置し、それを顕微鏡でのぞくような装置を考えていたらしい。

 ひとつの軸に蠟管式の音声シリンダーと映像用のシリンダーを固定して回転させれば、音声とピッタリシンクロした映像が再生される。エジソンの発想は「映像付きの蓄音機」だった。

 だがディクソンの発想は逆だ。彼は写真の技術に詳しく「動く写真」をいかに実現するかにこだわった。その結果、エジソンの考えたシリンダー型のアイデアを捨てて、より幅の広いセルロイド製のロールフィルムを使用することを考える。その方がより鮮明な映像が作れるからだ。

 フィルムの幅は35mmに決め、フィルムの両側にフィルムを移動させるための穴を等間隔で空けた。35mmフィルムでは映像の縦横比が3:4になり、1コマ当たり左右の穴が4個ずつ並んでいる。これらの規格は、その後もサイレント映画の基本的なフォーマットとして長く使われることになる。

 こうして作られたキネトスコープは大ヒット商品になり、アメリカの大都市には「キネトスコープパーラー」が何ヶ所も作られ、遊技場に設置され、巡回興行師たちはキネトスコープを抱えて世界中で客を集めた。エジソンはキネトスコープと蓄音機を組み合わせたキネトフォンも作っている。やはりエジソンは蓄音機の人なのだった……。

 しかし「動く写真」の地位をキネトスコープやキネトフォンが独占していたのはほんの数年だ。リュミエール兄弟がスクリーン上映式のシネマトグラフを発明すると、観客は大画面の迫力と臨場感に心を奪われてしまう。キネトスコープはあっという間に時代遅れの装置になり、エジソンもあわててスクリーン上映式の装置の権利を買い付けて路線変更を行った。

 だがディクソンはその頃もまだ「動く写真」の研究を行っていた。彼は1905年にエジソンの研究所を離れ、ミュートスコープという新しい動画再生装置を作り出す。ローロデックスという名刺フォルダーがあるが、ミュートスコープはその親玉みたいな機械だ。円環状に配置された写真の束を高速でパラパラとめくり、それをのぞき穴からのぞいて動く写真を楽しむ。映像ソフトの更新は、写真束が装着されたディスクを交換することで行ったのだと思う。


 ミュートスコープはキネトスコープよりずっと鮮明な動画が得られる上に、機械としての耐久性も高い。構造もシンプルなので値段もキネトスコープより安かっただろう。こうして遊技場などに設置された動画再生装置は、あっという間にキネトスコープからミュートスコープに置き換えられてしまった。

 ものの本によればミュートスコープは「比較的最近」まで場末の遊技場などに残っていたという。おそらく1960年代か70年代頃までは、ピンボールマシンやジュークボックスに混じって、遊技場の片隅でほこりをかぶっていたのだろう。現役で稼働するキネトスコープは世界にほとんど残っていないと思うが、ミュートスコープはまだあちこちの博物館で現役で動くものが残されているようだ。

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2015年2月25日水曜日

映画を発明したのは誰?

 マーティン・スコセッシ監督(1942〜)の『ヒューゴの不思議な発明』(2011)は、映画の発明者ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)が登場するファンタジー映画だ。

 映画史に詳しい人ならメリエスの名前は知っているだろう。彼は世界で最初の映画監督と言われ、世界で最初に映画スタジオを設立した男であり、世界最初の映画スターでもある。でも彼が映画の発明者?

 そう、メリエスは映画の発明者だった。だが彼がひとりで映画を発明したわけではない。

 映画につながる原理は19世紀の中頃からさまざまな発明家たちが手掛け、それが19世紀末に集大成されて、動画を撮影する機械(カメラ)と、撮影済みの記録メディアから動画を再現する機械(映写機)が作られた。

 映画の発明者としてよく知られているのは、アメリカの発明王エジソン(1847〜1931)やフランスの発明家でオーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)のリュミエール兄弟かもしれない。ものすごく大ざっぱに解説すると、エジソンは撮影機のキネトグラフと箱形の動画再生装置キネトスコープを発明した。リュミエール兄弟はこれらを参考にして、スクリーン上映式のシネマトグラフを発明した。映画史の教科書では、まあだいたいそういうことになっている。

 だが映画の歴史を紐解けば、エジソンに先立って連続写真の技術を発明したエドワード・マイブリッジ(1830〜1904)がいなければ映画は作れなかっただろうし、連続した映像を連続投影して動かすエミール・レイノー(1844〜1918)のテアトル・オプティークに至っては、ほとんど映画の直前まで到達している発明品だった。

 現在の映画につながる発明品が、エジソンの研究所から生まれたのは事実だ。だがエジソン研究所から生み出される発明品の多くは、エジソンと彼に雇われた研究者や発明家たちの共同作業で作られていた。映画装置であるキネトグラフやキネトスコープをほとんどひとりで発明したのは、スコットランド人の発明家ウィリアム・K・L・ディクソン(1860〜1935)だ。

 彼が1891年頃にエジソン研究所でテスト撮影した映像の断片は、今でも残っていて見ることができる。こうした断片は幾つかあってどれが最古のものかはよくわからないのだが、これらが世界で最も古い映像の一部であることは間違いない。


 ディクソンの発明が基礎になって、映画は最初の10年ほどで飛躍的に技術が高まっていく。そこにリュミエール兄弟やメリエスが参加したのだ。

 リュミエール兄弟は父からキネトスコープの話を聞いて(実物が手もとにあったかは不明)、シネマトグラフを作ってしまった。パリでシネマトグラフの上映を見たメリエスは、自らロンドンまで出向いて未完成の似たような映画装置を仕入れ、それを改良して映画の撮影と上映用の装置を作り上げてしまった。

 この時の工夫の幾つかが、その後の映画に不可欠な特許になった。そのためメリエスは、映画の発明者のひとりになっているわけだ。

 1908年。エジソンが中心になって各社が映画関連の特許を持ちより、互いに利益を分配するための映画特許会社(MPPC)という組織を作った。この組織にはメリエスも参加している。

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2015年2月24日火曜日

残る映画と消える映画

 ダルトン・トランボ(1905〜1979)は赤狩り時代に聴聞会での証言を拒んで議会侮辱罪に問われ、「ハリウッド・テン」として投獄された脚本家だ。

 赤狩り以前の作品にはジンジャー・ロジャースにアカデミー賞をもたらした『恋愛手帖』(1940)があり、トランボもこの映画でオスカー候補になっている。他の作品としては、ドゥーリトル隊による東京初空襲を描く『東京上空三十秒』(1944)が代表作らしい。

 だがトランボの名前を有名にしているのは、『ローマの休日』(1953)だ。現在発売されているDVDでは原作・脚本にトランボの名前がクレジットされているが、当初はそうではなかった。刑務所を出た後もブラックリストに掲載された危険人物としてハリウッドを追放されていたトランボは、この頃自分の名前で仕事をすることができず、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンター(1915〜1991)の名前を借りてこの仕事をしたからだ。

 トランボは『ローマの休日』に関わったことを長く秘密にしていたのだが、やがてこれが明らかになると、映画会社は映画冒頭のクレジット表記をトランボの名前に差し替えた。イアン・マクレラン・ハンターの名は版権切れの古いマスターを使ったDVDなどに残っているが、パラマウントから発売されている正規マスターのDVDはトランボ名義になっているはずだ。

 『ローマの休日』はアカデミー原案賞を受賞したが、その3年後の『黒い牡牛』(1956)でも、トランボはロバート・リッチという変名でアカデミー原案賞を受賞している。監督は『アメリカ交響楽』(1945)や『ガラスの動物園』(1950)アーヴィング・ラパー(1898〜1999)だが、今日『黒い牡牛』を観る人はほとんどいないと思う。僕も観ていない。アカデミー賞を取ったのだからそれなりに面白い映画なのだろうが、映画史の中では「トランボが変名で書いてアカデミー賞を受賞した作品」として記憶されているだけだ。


 映画の中には長い時間がたっても新たなファンを獲得し続ける「残る映画」と、その時代にはウケてもやがて観る人が減り忘れられてしまう「消える映画」がある。トランボの作品であれば、『ローマの休日』は「残る映画」であり、50年後も100年後も観られている作品だろう。だが『黒い牡牛』は「消える映画」だった。

 トランボは赤狩りに負けず変名でアカデミー賞を獲得した「不屈の名脚本家」のように言われることもあるのだが、実際のところはどうなのだろう? トランボは1960年の『栄光への脱出』と『スパルタカス』で正式に脚本家としてクレジットされ、追放から10年目にして劇的なハリウッド復帰を果たす。だが『栄光への脱出』や『スパルタカス』が今後も「残る映画」なのかはちょっと微妙だ。少なくともこれらは『ローマの休日』ほどには観られていない。

 1971年の『ジョニーは戦場へ行った』は、トランボが赤狩り以前に書いた小説をもとに、自ら脚色し、初監督した作品だった。ベトナム戦争時代の反戦や厭戦のも相まって、この作品はヒットしたし高い評価も受けている。今観ても感動的な映画だろう。でもこの映画は「残る映画」だろうか? これは『スパルタカス』よりもっと微妙だと思う……。

 「消える映画」と「残る映画」の違いがどこにあるのかは、同時代の人にはわからない。20年、30年、50年たって、年月がその評価を下す。その時代の中でどれほど大ヒットしても、それが何十年も後になってなお愛され続ける作品になるかどうかはわからない。案外「これは当時大ヒットしました」という評価だけが残り、映画自体は消えてしまうことだってあるかもしれないのだ。

 例えばジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)はどうだろう。これは歴史的な大ヒット映画であり、『ベン・ハー』(1959)が持つアカデミー賞11冠の記録に肩を並べた歴史的な作品でもある。でも『タイタニック』は今でも観られているんだろうか? 今後20年、30年、50年たって、なお新しいファンを獲得し続ける作品としての地位を保っているだろうか? これも結構、微妙な話だと思う。

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2015年2月23日月曜日

エリック・ベントリーの「ハリウッドの反逆」

 ハリウッドの赤狩りで行われていた喚問が具体的にどんなものだったかは、エリック・ベントリーの「ハリウッドの反逆」(小池美佐子訳/影書房)という戯曲にその様子の一端が描かれている。

 これは赤狩り当時の膨大な記録を整理し、再構成した舞台劇。原題は「あなたは今、あるいはかつて(Are you now or have you ever been)」だが、これは下院非米活動委員会(HUAC)が聴聞会に呼び出した証人に対して、「あなたは今、あるいはかつて、共産党員でしたか?」と迫るお決まりの質問から取られている。

 この戯曲はハリウッドが赤狩りによって追い詰められ、自由を失っていく様子が17人の証人の聴聞の様子を通して描かれる。登場するのは以下の人々だ。カッコ内は当時のハリウッド内での肩書きで、※印が付いているのはいわゆる「ハリウッド・テン」のメンバーだ。
  • サム・G・ウッド(プロデューサー・監督)
  • エドワード・ドミートリク(監督)※
  • リング・ラードナー・ジュニア(脚本家)※
  • ラリー・パークス(俳優)
  • スターリング・ヘイドン(俳優)
  • ホセ・ファーラー(俳優)
  • エイブ・バロウズ(脚本家)
  • エリア・カザン(監督)
  • トニー・クレイバー(?)
  • ジェローム・ロビンズ(振付師)
  • エリオット・サリヴァン(俳優)
  • マーティン・バークリー(脚本家)
  • リリアン・ヘルマン(脚本家)
  • マーク・ローレンス(俳優)
  • ライオネル・スタンダー(俳優)
  • アーサー・ミラー(脚本家)
  • ポール・ロブスン(俳優・歌手)
 映画ファンによく知られている人もいれば、まったく無名の人もいることだろう。俳優のラリー・パークスは、おそらくあまり知られていない部類だと思うのだが、僕にとっては『ジョルスン物語』(1946)の主演スター。その彼が赤狩りに引っかかっていたことは知っていたが、実際に委員会に呼び出されてどれだけこってり絞り上げられたかを、僕はこの本を読んで知ったのだ。

 赤狩りはハリウッドを大きく傷つけた。1950年代のハリウッドはテレビの登場で観客が激減するという嵐に見舞われるのだが、本来ならそこで知恵を絞り、共に汗をかいて新しい映画作りに立ち向かわなければならない仲間の多くを失った。ハリウッドは密告が横行する社会となり、それまで大スターから末端のスタッフにまで共有されていた家族的信頼関係は完全に損なわれてしまった。

 長年の仕事仲間で昨日のランチも笑いながら一緒に食っていた親友が、じつは2年前に委員会に呼び出されて自分を密告していた……なんてことがあるのだから、もう誰も信用できないではないか。

 このあたりのギスギスして気まずい雰囲気は、映画『真実の瞬間(とき)』(1991)や『マジェスティック』(2001)にも描かれている。17世紀にアメリカで起きた魔女裁判をモチーフにした戯曲『るつぼ』(1953)で赤狩りを批判したアーサー・ミラーは、その後自らも委員会に呼び出されて議会侮辱罪に問われた。

 戯曲「ハリウッドの反逆」はこの勇ましいタイトルとは裏腹に、アメリカのショービジネス界が政治の前に完全屈服するところで終わっている。
一九五八年ころまでには、あらゆる職業が屈服させられていた。あるものはみずからの手で死を選び、あるものは心臓発作をおこし、多くはブラックリストにのせられ、また多くは偽りの悔悛によって地位を確保し——あるいは改善した。ショー・ビジネス界を対象とする調査は完了したのである。
 アメリカの映画界はその後1960年代初頭まで、赤狩りの余波を引きずることになる。聴聞会に呼び出されたメンバーだけではなく、そこで名前が取りざたされた人、名前が取りざたされたのではないかと噂になった人などが、映画製作に携わるには好ましからざる人々とされてブラックリストに載り、ハリウッドを追放されたのだ。

 ハリウッドから追放された人たちの中には、台頭してきたテレビの世界に新しい活躍の場を見出す人もいた。海外に逃れてそこで作品を発表する人もいた。舞台の世界に戻る人もいた。偽名や変名を使って、秘かにハリウッドの仕事をする人もいた。だが行き場をなくしてショービジネスの世界を離れたり、命を絶ってしまう人もいた。


 ハリウッドの赤狩りについては、政治圧力に屈することなく投獄されることを選んだ「ハリウッド・テン」の勇気がやたらと讃えられたり(その後に何人かの転向者も出るのだが)、「ハリウッド・テン」として映画界を追放された後もさまざまな変名で脚本を書き、アカデミー賞まで受賞してしまったダルトン・トランボ(1905〜1976)のことがしばしば取り上げられることがある。(トランボは1960年に『栄光への脱出』と『スパルタカス』でハリウッドに完全復帰する。)

 でもトランボのような人は、やはりきわめて例外的だと言うしかない。ほとんどの人は、赤狩りでハリウッドを追放されるとそれっきりになってしまったのだ。運良く映画界に復帰できたとしても、キャリアの断絶はその人の人生に致命的なダメージを与えた。ラリー・パークスもそうした犠牲を被ったひとりだ。

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2015年2月22日日曜日

ラリー・パークスと『真実の瞬間(とき)』

 『ジョルスン物語』(1946)に主演したラリー・パークスは、三十路過ぎの遅咲きスターとしてようやく脚光を浴びることができた。受賞は逃したが、アカデミー賞にノミネートされたのは業界内での評価が高かった証拠だ。

 ただ残念なことに、彼はその後はあまり作品に恵まれなかった。リタ・ヘイワーズの相手役をつとめてもパッとせず、結局はヒット作の続編『ジョルスン再び歌う』(1949)に出たりしている。だが彼にとって最悪だったのは、どういうわけか赤狩りのターゲットにされて聴聞会に呼び出されてしまったことだろう。ラリー・パークスの俳優としてのキャリアは、事実上ここで終止符を打たれてしまった。

 赤狩りというのは、第二次大戦後のアメリカで起きた共産主義者に対する弾圧のことだ。アメリカは1920年代から共産主義の拡大を警戒していたが、世界恐慌では社会主義的なニューディール政策を導入して苦境を脱する。第二次大戦中はナチスドイツに対抗するため、ソ連と手を組む必要もあった。だが第二次大戦が終わると、いきなり東西の冷戦が始まる。アメリカを訪問したチャーチルが有名な「鉄のカーテン」についての演説をしたのは1946年のこと。アメリカ国内でも共産主義者や社会主義者は「反社会的な危険思想の持ち主」と見られるようになる。

 赤狩りは別名「マッカーシズム」とも呼ばれるが、これは1950年に「国務省で働いている共産主義者の名簿を持っている」とぶち上げて名を上げたジョセフ・マッカーシー上院議員の名にちなんでいる。だがハリウッドの赤狩りはそれより前から始まった。第二次大戦中に対独協力者の調査を行っていた下院非米活動委員会(HUAC)が、ドイツ敗北後にターゲットを共産主義者に切り替えたのだ。

 委員長のJ・パーネル・トーマスは、赤狩りのターゲットをハリウッドに定める。政治家は自分たちの名前と顔を売ってナンボの商売だ。当時のハリウッドはアメリカ国民にとって最大の娯楽を提供する「夢の工場」であり、人気スターたちの一挙手一投足に世間の目は集まっている。そこで目立った活動ができれば、大手柄として自分の宣伝材料に使えるではないか……。

 ハリウッドは1930年代にブロードウェイの演劇人を大量に雇用しているのに加え、ヨーロッパでナチスが台頭してからは亡命してきた映画人たちを受け入れている。その中には共産主義者やそのシンパが大勢紛れているのだ。叩けば当然大量のホコリが出るに決まっている。

 1947年、HUACはハリウッドの映画人19人(ハリウッド・ナインティーン)に召喚状を送った。このうち11人が証言台に立たされるが、質問の中心は「あなたは現在あるいは過去に共産主義者であったか否か?」だった。

 11人の中で唯一の外国人だったベルトルト・ブレヒト(1898〜1956)は、英語がよくわからない振りをして委員たちの質問を煙に巻き、その後はあっという間に国外逃亡してしまう。残り10人は事前に相談の上で、「思想信条の自由は憲法によって保障されている。自分の思想について答える義務はない」と委員会への協力を拒む作戦をとった。ところがこれが議会侮辱罪になって、10人は刑務所に送られてしまった。ハリウッドで最初に赤狩りの犠牲になった彼らを、「ハリウッド・テン」と呼ぶこともある。


 ハリウッドでは映画人が委員会に告発されたことに対する抗議運動が起こったが、法廷闘争のかいなく1950年にハリウッド・テンの投獄が決まるとこの運動は瓦解した。映画会社の幹部たちは「もしスタジオ内に共産主義者がいるなら厳正に対処する」という宣言を出し、政治家たちに追従する形で事態の収拾をはかろうとする。

 話はここでラリー・パークスに戻る。彼は最初に召喚状を受け取った19人うちのひとりだった。いつ自分が証言台に立たされるかと、ビクビクしながらその日を待っていただろう。だがHUACはブレヒトの逃亡やハリウッド・テンの反逆などに気を取られて、パークスにはいつまでたってもお呼びがかからない。ハリウッド・テンを生け贄に差し出して、HUACも一応の成果を上げたと満足したのだろうか?

 だが赤狩りは終わっていなかった。ハリウッドの赤狩りは「マッカーシズム」の到来と共に第2ラウンドに入る。

 前回の召喚で首の皮1枚つながっていたラリー・パークスは、1951年になってとうとう証言台に立たされる。だがこの時のハリウッドには、ハリウッド・テンが戦っていた時代のような、仲間を守ろうとする雰囲気はもはやなかった。

 委員会で証言を求められたら最後、そこで映画人としてのキャリアは終わってしまうことをパークスは知っていた。委員会に非協力的な態度を取れば、ハリウッド・テンと同じく刑務所行きが待っている。かといって委員会に協力すれば、裏切り者のレッテルを貼られて映画業界からは追放されてしまうだろう。

 パークスは委員会でこう述べている。
「ぼくのキャリアはこれでめちゃめちゃなんですよ、だからどうかこれ以上——委員会侮辱のかどで投獄されるか、泥沼をはいずりまわって密告者になるか、どっちか選べなどと言わないでください!」
 しかしパークスは最後に、追放されることを選んだ。彼には妻のベティ・ギャレット(1919〜2011)とまだ幼いふたりの子供がいて、投獄という選択はあり得なかったからだ。パークスのキャリアはここで終わり、妻のギャレットと共にハリウッドを追放されることになった。

 ハリウッドの赤狩りについては何本かの映画が作られている。ハリウッド映画人のメロドラマに仕立てたのが、バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォード主演の『追憶』(1973)。コメディ仕立てにしたのは、ジム・キャリー主演の『マジェスティック』(2001)だ。そしてより実録風に審問の様子を再現してみせたのが、ロバート・デ・ニーロ主演の『真実の瞬間(とき)』(1991)だった。

 『真実の瞬間(とき)』は映画としては二流だと思うが、劇中には赤狩り時代に実際に起きたエピソードが多く盛り込まれている。映画は主人公の友人がHUACの委員たちから証言を迫られる場面から始まるが、この場面ではラリー・パークスの実際の証言記録が引用されている。

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2015年2月21日土曜日

『ジョルスン物語』の面白さ

 『ジョルスン物語』(1946)は、アメリカの歌手アル・ジョルスン(1886〜1950)の伝記映画だ。この頃の伝記映画の常で、物語はモデルになった当人の実人生に大幅にフィクションを織り交ぜている。映画の売りは、劇中で歌われている曲だ。映画の中の歌声はすべて、当時まだ存命中だったアル・ジョルスン本人による新録音だった。

 ジョルスンはブロードウェイとハリウッドの両方で、人気の頂点を極めた大歌手だった。その時代に録音されたレコードも残っている。だが彼の活躍時期は1920年代から30年代にかけてで、録音の技術水準はあまり高くなかった。当時の録音を1946年の映画にそのまま持ってくるのはあまりにもお粗末なので、ジョルスンが映画に使う代表的な持ち歌を一通り全部録音し直したわけだ。

 30代のジョルスンと50代のジョルスンとでは、歌唱スタイルは同じでも声の質がだいぶ異なっている。年齢を経たことでキーが少し下がり、より渋く円熟味を増していたのだ。今でもCDなどでジョルスンの歌声を簡単に聴くことができるが、20年代の若く溌剌とした弾むような歌声もいいが、40年代の丸く角が取れた深みのある声も魅力的だ。

 映画はジョルスンの歌以外ほとんどフィクションなのだが、そうなってしまった理由はいくつかある。主人公をはじめモデルになった人たちがまだほとんど存命中だったため、実際のエピソードにするといろいろと差し障りがあったというのがまず第一の理由だろう。

 例えば主人公の妻ジュリー・ベンソンは明らかにルビー・キーラーがモデルだが、キーラーはジョルスンと1940年に離婚したあと再婚して別の家庭を築いていた。そんな人を実名で出せるはずがないし、ジョルスンとの夫婦関係で何があったかを細かく描くのも問題が生じる。映画の中ではジュリーがジョルスンの最初の妻になっているが、じつはジョルスンはキーラーと結婚する前に2度の離婚歴があり、彼女は3人目の妻だった。そのことも映画では伏せられている。

 アル・ジョルスンは世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(1927)に出演して、ブロードウェイの大スターから映画スターになる。当然この話は『ジョルスン物語』にも登場するのだが、それ以前の舞台でのキャリアを描く前半に比べると、映画人としてのジョルスンの描写が薄っぺらなものになってしまうのは残念だ。

 しかしこれもやむを得ない。ジョルスンはワーナー映画のスターで、その後は20世紀フォックスでも何本か映画を撮っている。しかしこの『ジョルスン物語』はワーナーでもフォックスでもなく、それまでジョルスンの映画を1本も作ったことがないコロンビア映画の製作なのだ。『ジョルスン物語』はカラー作品だから、本当ならワーナー時代のモノクロ作品の名場面をカラーで再現したかっただろう。でもそれは権利問題があって不可能な話だった。

 主演のラリー・パークス(1914〜1975)は、この映画でいきなりスター俳優になった。大げさな身振り手振りでダイナミックに熱唱するジョルスンのパフォーマンスを忠実にコピーした彼は、アカデミー賞にもノミネートされている。30歳を過ぎた遅咲きのスターだった。


 ラリー・パークスとジョルスンの声はまったく異なる。台詞から歌に入ると声が変わることがわかるし、そもそもこの映画を観ている1940年代の観客は、ラリー・パークスの声がジョルスン本人の吹替だとみんな知っていただろう。だがそれでも、パークスの歌唱シーンには人を引き込む力がある。口パクと言えばそれまでなのだが、これは天下一品、百点満点の口パクだ。

 ジョルスンはこの映画で声の出演という裏方に徹しているのだが、じつはワンシーンだけ本人役で出演している。ガーシュウィン最初のヒット曲「スワニー」を歌う場面だ。このシーンはカメラが寄らずに終始ロングショット。しかし主人公の足取りや動きが、パークスの演じるジョルスンよりずっとスピーディでエネルギッシュだ。ジョルスンはこの前年の映画『アメリカ交響楽』にも、本人役で出演して「スワニー」を熱唱している。ジョルスンにとっても、これは特別な思い入れがある曲だったのかもしれないな……。

 パークスは続編『ジョルスン再び歌う』(1949)でも同じ役を演じているが、そこではなんと『ジョルスン物語』の製作舞台裏が再現されている。パークスが演じるアル・ジョルスンと、パークス本人が演じるパークスが劇中で顔を合わせて挨拶する場面は、何度観ても面白くてニコニコしてしまう。

 アル・ジョルスンはこの映画のヒットで再び人気歌手の座に返り咲き、大量のレコーディングを行うことになった。そのおかげで今でも音質のいいステレオ録音で、ジョルスン晩年の素晴らしい歌声が聞けるのはありがたい。

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2015年2月20日金曜日

ルビー・キーラーと「ノー、ノー、ナネット」

 ルビー・キーラー(1910〜1993)という女優を知る人は少ないと思う。ワーナー製作のミュージカル映画『四十二番街』(1933)の主演女優だが、彼女の活躍は1930年代にほぼ限定されている。出演作の多くは日本でも公開されているが、どれも戦前の話で、戦後は出演作画公開されていないようだ。

 僕は彼女の映画を観る前から、その名前を知っていた。大歌手アル・ジョルスンの奥さんとしてだ。彼女は1930年に映画に端役デビューしているようだが、それより前の1928年にアル・ジョルスンと結婚しているのだ。

 この結婚については、ある伝説的なエピソードがある。ブロードウェイの舞台「ショーガール」(1929)に出演中のキーラーがガーシュウィンの「ライザ」を歌うフィナーレで、緊張のあまり声が出なくなってしまうという出来事があった。この時たまたま客席にいたのが夫のアル・ジョルスンで、彼はとっさに自分で「ライザ」を歌ってその場を救ったのだという。

 これは「ガーシュウィン歌曲集」のCDの何かに、楽曲の説明として掲載されていた。当時は「いい話だなぁ」と思ったのだが、今では「本当か?」と疑っている。じつはこの場面、ジョルスンの伝記映画『ジョルスン物語』の中で再現されているのだ。伝記映画の中の名場面が、そのまま当人のエピソードとして伝説化したんじゃなかろうか……。

 キーラーはその後、ジョルスンに付き添うように活動の拠点をハリウッドに移す。ジョルスンは既にワーナー映画の大スターだ。彼女が『四十二番街』でいきなり主役に大抜擢されたのは、ブロードウェイでの実績はもちろん、ジョルスンの妻だったという理由が大きかったと思う。

 彼女は小柄で丸顔で、じつは歌もあまり上手くない。声が細くて、音程やテンポにも少し曖昧なところがあるのだ。しかしタップダンスはダイナミック。フレッド・アステアなどの軽やかに滑るようなタップではなく、体重をしっかりかけて、かかとで床を踏み抜くようなダンスを見せる。状態の動きがぎこちなくてバタバタした印象もあるが、それはそれでご愛敬だ。


 『四十二番街』でワーナー・ミュージカルの新しい顔になったキーラーだったが、映画スターとしてのキャリアはさほど長く続かなかった。彼女の活躍は1930年代一杯でおしまい。同じ頃、夫のアル・ジョルスンもやはり映画出演が途絶えてスクリーンからフェードアウト。そしてふたりは1940年に離婚してしまう。

 1946年に公開された『ジョルスン物語』を、キーラーは観ただろうか? 映画の中では彼女に相当する役をイヴリン・キースという大人っぽいムードの女優が演じていたが、外見も雰囲気もキーラーとは似ても似つかない。役名もジュリー・ベンソンに変えてあったし、まあ作り手としても「別人です」ということなのかもしれないけど……。

 彼女はそのあと舞台の仕事に戻って行くが、ブロードウェイで大喝采を浴びることになったのは1971年のミュージカル「ノー、ノー、ナネット」への出演だ。「幸せになりたい」や「二人でお茶を」などのナンバーで知られる、1925年に初演された古いミュージカル作品のリバイバル上演だが、この時キーラーが演出家に指名したのがバスビー・バークレー。『四十二番街』の振付師として彼女を映画スターにした演出家と、今度は舞台でコンビを組んだのだ。


 この時の上演は、出演キャストで楽曲のレコーディングが行われている。キーラーも歌を披露しているが、相変わらず上手くはない。音程やテンポはやっぱり曖昧だ。でもこれがいい。彼女が歌っている場面は、一瞬でそれがルビー・キーラーだとわかる。

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2015年2月19日木曜日

バスビー・バークレーの万華鏡ショット

 1930年代のミュージカル映画で、「個人技」としてのダンスシーンをひとりで完成させてしまったのがフレッド・アステアだとすれば、「群舞」としてのダンスシーンをこれまたひとりで完成させてしまったのがバスビー・バークレー(1895〜1976)だ。

 もともとブロードウェイで振り付けの仕事をしていたが、トーキー革命でミュージカル映画のブームが起きるとハリウッドに仕事場を移した。最初の仕事はエディ・カンター主演の『ウーピー!』(1930)。大勢のダンサーたちがぞろぞろと登場して歌い踊るというパターンは、既にここで披露されている。しかし彼の名声を決定的にしたのは、1933年のワーナー映画『四十二番街』だ。

 バークレーは1950年代まで映画界で活躍しているが、紛れもない代表作と呼べる作品は、1930年代のワーナー時代にあると思う。その後MGMでも振り付けや監督の仕事をしているが、MGMは「空に輝く星よりも多いスターたち」を売りにしたスターシステムの映画会社だったせいか、バークレーお得意の「群舞」の魅力が味わえる作品はあまりないのだ。(それでも奇抜な振り付けで観客を驚かせるナンバーは多い。)

 バークレーの振り付けというのは、基本的に「質より量」なのだ。アステアのダンスが長年のトレーニングとウンザリするほど繰り返される入念なリハーサルによって磨き上げられた個人芸術なのに対し、バークレーのダンスは映画館のスクリーンを埋め尽くす若い美女たちが繰り広げるマスゲームになっている。

 舞台出身のバークレーは、映画の世界で「舞台では表現できないダンスシーン」の演出に挑む。それの代表が、ダンサーたちの群舞を真上から撮影したショットだ。舞台では客席から見て前後の奥行きがあるため、ダンサーを円形に配置して踊らせても、客席からそれが円形に見えることはない。しかし映画なら撮影ステージの上で円を描いて踊るダンサーたちを真上から撮影し、完全な円形を作り出すことが出来る。

 バークレーの映画の中では数十人、場合によっては数百人のダンサーたちが、画面の中で何重もの同心円を描いて踊る。彼らの動きは音楽とシンクロして、万華鏡のような千変万化の幾何学模様を描いていくのだ。

 『四十二番街』でもそうだが、バークレーの演出するダンスシーンは劇中劇として演じられているものが多い。スクリーンの中で演じられているのは、ブロードウェイのミュージカルであったり、ナイトクラブのショーであったりする。だがバークレイの奇想天外なアイデアは、そうした舞台設定の制約を軽々と飛び越えてしまう。


 ダンスシーンが始まった途端に、ステージは本来の大きさの何倍にも何十倍にも拡大し、舞台演出としては不可能なスペクタクルが展開するのだ。目のくらむような数分間のドラマが終わった後、カメラは再びステージの上に戻ってくる。よく考えれば「そんなバカな!」なのだが、そんなことお構いなしなのがバークレー演出の楽しさだろう。

 フレッド・アステアのダンスは、彼と同じだけの才能と努力なしには同水準のものを作ることが出来ないが、バスビー・バークレーのダンスは「質より量」だから模倣されやすい。バークレーの演出する群舞は、ミュージカル映画の定番としてあっという間に消費され尽くしてしまった。

 バークレーは1950年代にハリウッドを去り、再び舞台の世界に戻っていく。(1962年に『ジャンボ』の振り付けを担当しているが、連続したキャリアは50年代で一度途切れている。)ハリウッドでの活動は20年ほどに過ぎない。しかし彼の作り上げたスタイルは今でも多くの映像作家たちに模倣され、ミュージカル映画、CM、PVなどでその影響を見ることができるのだ。

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2015年2月18日水曜日

アステア&ロジャース

 俳優であり歌手であり、もちろんダンサーでもあったフレッド・アステア(1899〜1987)は、ミュージカル映画ファンの間では「ダンスの神様」のように崇拝されている存在だ。他のどんなダンサーが束になってかかっても、この地位は決して揺るがない。

 彼はミュージカルの中心がブロードウェイからハリウッドへ移動していく時その中心にいて、ミュージカル映画のひとつのスタイルを確立した不世出の大スターなのだ。当時のハリウッドはブロードウェイから多くのミュージカル関係者を集めていて、アステアのために多くの一流ソングライターが楽曲を提供することになった。

 コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィンなどが、アステアの映画のために曲を作っている。アステアが映画の中で歌った曲の多くは、今でもスタンダードナンバーとして歌い継がれているが、そのオリジナル歌手はアステアなのだ。

 彼は映画の中でさまざまなダンサーと共演しているのだが、ダンスパートナーで誰が一番だったのかについてはミュージカル映画ファンの中でも議論になる難題だ。しかしこれについて、僕自身はもうずいぶん前に結論が出ている。アステアのパートナーで一番は、誰が何と言おうとジンジャー・ロジャース(1911〜1995)で決まりだ!

 ロジャースはダンサーとしての技量では、アステアの他の共演者たちに比べてだいぶ格下であることは間違いない。ダンスの上手さで言えば、エレノア・パウエルやアン・ミラーの方が断然上手いだろうし、ダンスナンバーでは『イースター・パレード』でジュディ・ガーランドと踊った「素敵なカップル(A Couple of Swells)」が僕のお気に入りだ。『バンド・ワゴン』でシド・チャリシーと踊った「ダンシング・イン・ザ・ダーク」も良かったな。でもこうした映画に出演している頃、アステアは既に「ダンスの神様」だったのだ。パートナーはアステアを尊敬し、崇拝し、彼のダンスの魅力の引き立て役になることが義務づけられていた。

 でもジンジャー・ロジャースは違う。ショービジネスの世界のキャリアではアステアの方が当然大先輩だが、映画の世界に入ったのはロジャースの方が先でキャリアもある。彼女はアステアと組む前から、『四十二番街』や『ゴールド・ディガース』(1933)などの映画でスターになっていた。彼女はアステアを「ダンスの神様」だなんて思っていない。おそらく映画の主役は自分で、それを引き立てるためにアステアが出演していると思っていただろう。


 アステアとロジャースの共演作は、全部で10作品ある。アステアとこれほど大量に共演した女優は、ジンジャー・ロジャース以外には誰もいない。

  1. 空中レヴュー時代(1933/RKO)
  2. コンチネンタル(1934/RKO)
  3. ロバータ(1935/RKO)
  4. トップ・ハット(1935/RKO)
  5. 艦隊を追って(1936/RKO)
  6. 有頂天時代(1936/RKO)
  7. 踊らん哉(1937/RKO)
  8. 気儘時代(1938/RKO)
  9. カッスル夫妻(1939/RKO)
  10. ブロードウェイのバークレー夫妻(1949/MGM)

 『空中レヴュー時代』はアステアもロジャースも主役ではないので、2作目の『コンチネンタル』から『踊らん哉』や『気儘時代』あたりまでがコンビの黄金期だと思う。『カッスル夫妻』はショーダンスで一世を風靡した実在のダンサー夫妻の伝記映画だったこともあり、ダンスのスタイルが必ずしもアステアとロジャースの個性に合っていたとは思えなかったな……。

 アステアとロジャースのコンビ作は日本でもDVDが少し出ているのだが、ストーリー自体は他愛のないものなので、ダンスシーンだけ観たければアメリカ版のDVDを買うのがいいと思う。(日本のアマゾンでも並行輸入業者から購入できます。)字幕なしでも何となく様子はわかると思うしね。あ、リージョンコードの問題があるか……。

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2015年2月17日火曜日

ガーシュインと『アメリカ交響楽』

 『アメリカ交響楽』(1945)は戦後日本ではじめてロードショー公開されたアメリカ映画として、日本のローカルな映画史の中に名前が残っている作品だ。原題は『Rhapsody in Blue』で、同題楽曲の作曲家ジョージ・ガーシュウィン(1898〜1937)の伝記映画ということになっている。

 僕はこの映画をリバイバル公開で観た。最初に観たのがいつだったかは忘れたが、高校生の頃だったか、その後の専門学校時代だったか……。銀座のデザイン会社に勤めている時も、銀座和光の裏にあった銀座文化(現在のシネスイッチ)でちょくちょく上映されていたので、機会があれば足を運んだ。僕は結局この映画を、劇場スクリーンで少なくとも2回か3回ぐらいは観ているんじゃないだろうか。

 別に名作名画というわけではない。映画としては三流品だと思う。この頃の伝記映画の常で、中身はジョージ・ガーシュウィンの生涯をかなり自由に脚色したものになっている。もっともそれには、やむをえない大人の事情もあった。

 ガーシュウィンは晩年にハリウッドで映画の仕事を何本かしているが、それをそのままこの映画の中には使えないのだ。ガーシュウィンが手掛けた『踊らん哉』や『踊る騎士(ナイト)』(どちらも1937年製作)はRKO作品で、遺作となった『華麗なるミュージカル』(1938)はサミュエル・ゴールドウィンの作品。しかしこの『アメリカ交響楽』はワーナー・ブラザースの作品だから、こうした他社の曲は使えない。場面引用や再現も不可能だ。

 舞台や映画でガーシュウィン作品に出演していたフレッド・アステアも、この映画には出て来ない。映画には無名時代のガーシュウィンのオフィスでタップをする若い男が出てくるが、この映画のファンは彼を「アステアもどき」と呼んでいる……。

 だがそれでも、この映画には見どころがたくさんある。映画が作られた1945年は、ガーシュウィンの死からまだ10年もたっていない。生前のガーシュウィンと親交のあった人たちが、本人役で大勢出演しているのだ。

 例えばピアニストのオスカー・レヴァント。ミュージカル映画のファンなら、彼のことを『巴里のアメリカ人』(1951)や『バンド・ワゴン』(1953)などの作品で知っていることだろう。彼はガーシュウィンの理解者であり友人のひとりだったのだが、映画の中にも本人の役で出演し、劇中のピアノはすべて彼が演奏している。

 他にも「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたポール・ホワイトマン。ブロードウェイの大プロデューサーだったジョージ・ホワイト。「ポーギーとベス」の舞台を再現した場面では、初演でベスを演じたアン・ブラウン自身が「サマータイム」を歌っている。そしてアル・ジョルスンが出演している。


 この当時のアル・ジョルスンは往年の大スターで懐メロ歌手だった。しかしワーナー映画でスターになったジョルスンが、ワーナー製作の映画に本人役で出演し、黒塗りの顔で「スワニー」を歌うのだ。「スワニー」はガーシュウィンが世に出るきっかけを作った最初の大ヒット曲で、この場面は映画の中でも一番の見どころだと思う。僕はこの場面を観るたびにいつだってワクワクしてしまうのだ。

 アル・ジョルスンはこの翌年に伝記映画『ジョルスン物語』が製作されて大ヒットし、懐メロ歌手から売れっ子の座に返り咲く。ひょっとしたら、『アメリカ交響楽』はそのきっかけを作った映画なのかもしれない。

 ガーシュウィンの伝記映画はその後、よりリアルで実話に近いものを作るという企画が何度も持ち上がってはポシャっているらしい。でも誰がどんなに工夫をしても、たぶんもう『アメリカ交響楽』以上のガーシュウィン伝は作れないんじゃないだろうか。だって今から誰がどんな映画を作っても、そこにはオスカー・レヴァントもアル・ジョルスンもいないわけだしね……。

 この映画は確かに内容的にはデタラメだが、ガーシュウィンと同じ時代を生き、ガーシュウィンと共に舞台や映画を作っていた人たちが、自分たちの生きた時代を再現しているという意味でとても価値があると思う。

 『アメリカ交響楽』は版権が切れていることもあり、日本でも廉価版のDVDが何種類か販売されている。アメリカではワーナーから正規版が出ているんだけどなぁ。……というわけで、僕は今回この機会に、アメリカ版を購入することにした。アマゾンで並行輸入業者に発注したので、数週間以内に配達されてくると思う。

 アメリカのAmazonの商品説明ではリージョンオールになっていたけど、さて実際のところはどうなんだかなぁ。もっとも我が家にはハワイで買ってきたアメリカ仕様のDVDプレイヤーがあるので、リージョン違いでも問題はないんだけどね。

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