『ジョルスン物語』(1946)に主演したラリー・パークスは、三十路過ぎの遅咲きスターとしてようやく脚光を浴びることができた。受賞は逃したが、アカデミー賞にノミネートされたのは業界内での評価が高かった証拠だ。
ただ残念なことに、彼はその後はあまり作品に恵まれなかった。リタ・ヘイワーズの相手役をつとめてもパッとせず、結局はヒット作の続編『ジョルスン再び歌う』(1949)に出たりしている。だが彼にとって最悪だったのは、どういうわけか赤狩りのターゲットにされて聴聞会に呼び出されてしまったことだろう。ラリー・パークスの俳優としてのキャリアは、事実上ここで終止符を打たれてしまった。
赤狩りというのは、第二次大戦後のアメリカで起きた共産主義者に対する弾圧のことだ。アメリカは1920年代から共産主義の拡大を警戒していたが、世界恐慌では社会主義的なニューディール政策を導入して苦境を脱する。第二次大戦中はナチスドイツに対抗するため、ソ連と手を組む必要もあった。だが第二次大戦が終わると、いきなり東西の冷戦が始まる。アメリカを訪問したチャーチルが有名な「鉄のカーテン」についての演説をしたのは1946年のこと。アメリカ国内でも共産主義者や社会主義者は「反社会的な危険思想の持ち主」と見られるようになる。
赤狩りは別名「マッカーシズム」とも呼ばれるが、これは1950年に「国務省で働いている共産主義者の名簿を持っている」とぶち上げて名を上げたジョセフ・マッカーシー上院議員の名にちなんでいる。だがハリウッドの赤狩りはそれより前から始まった。第二次大戦中に対独協力者の調査を行っていた下院非米活動委員会(HUAC)が、ドイツ敗北後にターゲットを共産主義者に切り替えたのだ。
委員長のJ・パーネル・トーマスは、赤狩りのターゲットをハリウッドに定める。政治家は自分たちの名前と顔を売ってナンボの商売だ。当時のハリウッドはアメリカ国民にとって最大の娯楽を提供する「夢の工場」であり、人気スターたちの一挙手一投足に世間の目は集まっている。そこで目立った活動ができれば、大手柄として自分の宣伝材料に使えるではないか……。
ハリウッドは1930年代にブロードウェイの演劇人を大量に雇用しているのに加え、ヨーロッパでナチスが台頭してからは亡命してきた映画人たちを受け入れている。その中には共産主義者やそのシンパが大勢紛れているのだ。叩けば当然大量のホコリが出るに決まっている。
1947年、HUACはハリウッドの映画人19人(ハリウッド・ナインティーン)に召喚状を送った。このうち11人が証言台に立たされるが、質問の中心は「あなたは現在あるいは過去に共産主義者であったか否か?」だった。
11人の中で唯一の外国人だったベルトルト・ブレヒト(1898〜1956)は、英語がよくわからない振りをして委員たちの質問を煙に巻き、その後はあっという間に国外逃亡してしまう。残り10人は事前に相談の上で、「思想信条の自由は憲法によって保障されている。自分の思想について答える義務はない」と委員会への協力を拒む作戦をとった。ところがこれが議会侮辱罪になって、10人は刑務所に送られてしまった。ハリウッドで最初に赤狩りの犠牲になった彼らを、「ハリウッド・テン」と呼ぶこともある。
ハリウッドでは映画人が委員会に告発されたことに対する抗議運動が起こったが、法廷闘争のかいなく1950年にハリウッド・テンの投獄が決まるとこの運動は瓦解した。映画会社の幹部たちは「もしスタジオ内に共産主義者がいるなら厳正に対処する」という宣言を出し、政治家たちに追従する形で事態の収拾をはかろうとする。
話はここでラリー・パークスに戻る。彼は最初に召喚状を受け取った19人うちのひとりだった。いつ自分が証言台に立たされるかと、ビクビクしながらその日を待っていただろう。だがHUACはブレヒトの逃亡やハリウッド・テンの反逆などに気を取られて、パークスにはいつまでたってもお呼びがかからない。ハリウッド・テンを生け贄に差し出して、HUACも一応の成果を上げたと満足したのだろうか?
だが赤狩りは終わっていなかった。ハリウッドの赤狩りは「マッカーシズム」の到来と共に第2ラウンドに入る。
前回の召喚で首の皮1枚つながっていたラリー・パークスは、1951年になってとうとう証言台に立たされる。だがこの時のハリウッドには、ハリウッド・テンが戦っていた時代のような、仲間を守ろうとする雰囲気はもはやなかった。
委員会で証言を求められたら最後、そこで映画人としてのキャリアは終わってしまうことをパークスは知っていた。委員会に非協力的な態度を取れば、ハリウッド・テンと同じく刑務所行きが待っている。かといって委員会に協力すれば、裏切り者のレッテルを貼られて映画業界からは追放されてしまうだろう。
パークスは委員会でこう述べている。
「ぼくのキャリアはこれでめちゃめちゃなんですよ、だからどうかこれ以上——委員会侮辱のかどで投獄されるか、泥沼をはいずりまわって密告者になるか、どっちか選べなどと言わないでください!」
しかしパークスは最後に、追放されることを選んだ。彼には妻のベティ・ギャレット(1919〜2011)とまだ幼いふたりの子供がいて、投獄という選択はあり得なかったからだ。パークスのキャリアはここで終わり、妻のギャレットと共にハリウッドを追放されることになった。
ハリウッドの赤狩りについては何本かの映画が作られている。ハリウッド映画人のメロドラマに仕立てたのが、バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォード主演の『追憶』(1973)。コメディ仕立てにしたのは、ジム・キャリー主演の『マジェスティック』(2001)だ。そしてより実録風に審問の様子を再現してみせたのが、ロバート・デ・ニーロ主演の『真実の瞬間(とき)』(1991)だった。
『真実の瞬間(とき)』は映画としては二流だと思うが、劇中には赤狩り時代に実際に起きたエピソードが多く盛り込まれている。映画は主人公の友人がHUACの委員たちから証言を迫られる場面から始まるが、この場面ではラリー・パークスの実際の証言記録が引用されている。
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