彼は世界初の職業的な映画監督であり、世界初の特撮映画の作り手であり、世界初の映画スターであり、共演者を世界初の女性映画スターにし、映画製作のために世界初の映画撮影スタジオを作っている。
彼は大きな靴工場の息子に生まれたが、若い頃から奇術に夢中になり、工場の経営は兄たちに任せて自分は奇術師になった。靴職人だった父の血を引いてか手先が器用で創意工夫の才もあり、奇術のネタをあれこれ工夫するのが好きだった。
奇術は19世紀に人気のあったエンタテインメントだが、メリエスの時代にその全盛時代は終わっていた。メリエスは19世紀末に活躍した、最後の大物奇術師でもあるのだ。親の遺産分与を受けて奇術専用の劇場を買い取り、そこで趣向をこらした出し物を演じて客を楽しませた。
彼が最初に映画に出会ったのは1895年12月28日のことだった。パリのグランカフェで行われたリュミエール社主催のシネマトグラフ披露会、メリエスも招待されていたのだ。メリエスは奇術師なので、それ以前から幻灯についての知識はある。だが幻灯の中の写真が動き出したことに彼はびっくりした。「この発明品を売ってくれ!」と申し出たメリエスに、リュミエール側が「映画に未来はない」と言って断ったエピソードは、映画史の中の伝説になっている。
シネマトグラフが手に入れられなかったメリエスは、ロンドンの発明家が同じような装置を作っていると聞くと、まだ未完成だったその装置を購入してきた。これを自分で改造して、実際に撮影と映写ができるように仕上げてしまったのだ。
メリエスはこの機械を使って、自分でも映画を撮り始める。最初に作ったのは「列車の到着」や「カード遊び」といったリュミエール作品のコピーと、街の風景をそのまま撮影した短いフィルムだ。どれも単純なものだが、これが奇術を観に来た客たちには大評判だった。彼は映画作りにのめり込んで行く。
メリエスは映画を作りながらストップモーションや多重露光などのトリック撮影技術を編み出し、これを洗練させて他に類をみないファンタジー映画を次々に作った。その集大成が1902年の「月世界旅行」だ。複数のシーンで構成された15分ほどの「長編映画」は大評判となり、世界中で無数の海賊版プリントが出回ったという。
メリエスにとって映画は奇術の延長だった。彼は映画という新しい技術を使って、ステージ上で演じていた夢あふれる空想の世界を描き出した。だがこうしたメリエス流のファンタジー映画は、やがて少しずつ観客から飽きられてしまう。観客は映画の中に、よりリアルで現実に近い描写を求めたからかもしれない。
メリエスの創作意欲は衰えなかったが、彼の創作の夢の広がり以上に、20世紀初頭の映画産業は猛スピードで拡張して行った。巨大ビジネスになった映画はさまざまな契約でメリエスを縛り、ビジネスよりも自分の芸術に熱を上げるメリエスは取り残されてしまった。第一次大戦前に彼の映画製作はストップし、戦後にスタジオも人手に渡ってしまう。
晩年のメリエスの姿がスコセッシの映画『ヒューゴの不思議な発明』(2011)に登場するが、年老いたメリエスが映画の仕事を離れ、鉄道駅の売店でオモチャを売っていたのは事実だ。映画は1930年代に黄金期を迎えるが、その頃になって映画人たちはようやく大先達のメリエスが生活に困窮していることに気づいた。彼はパリ郊外に作られた映画業界人向けの老人ホームに招かれて余生を送ることになった。
マドレーヌ マルテット・メリエス
フィルムアート社
売り上げランキング: 1,066,416
フィルムアート社
売り上げランキング: 1,066,416
0 件のコメント:
コメントを投稿