フランスに渡ったガーシュウィンがナイトクラブを訪れると、そこでピアノを演奏していた彼女が即興でガーシュウィン・メドレーを演奏しながら歌いまくる。
これはまったく歴史的な事実とは無関係な、映画ならではの創作シーンだろう。ガーシュウィンは1937年に亡くなっているが、その時スコットは17歳。スコットは若くしてショービジネスの世界で成功していたので、ガーシュウィンとどこかですれ違っていそうな気もするが、映画に出てくるような劇的なものではなかったと思う。
おそらく劇中にミュージカルやレビュー、クラシック演奏のシーンはあってもジャズの場面がほとんどないので、それを補うために彼女の出演シーンを作ったのだと思う。彼女もガーシュウィンと同じで、クラシックとジャズの両方で活躍する演奏家だったからだ。
IMDbによれば、彼女は1943年から45年にかけて5本の映画に出演している。すべて彼女自身の役としての出演だ。貼り付けてある動画は1943年の映画『I Dood It』からの出演シーン……だと思う。
本当は『アメリカ交響楽』から引用したかったのだが、YouTubeでは該当する動画を見つけることができなかった。でもこれを観るだけでも、彼女の卓越したテクニックと独特のフィーリングを見て取れることができると思う。
ヘイゼル・スコットが女優でもないのに当時5本の映画に出演しているのは、彼女に当時それだけの人気があったからだ。1936年にはラジオのレギュラー番組を持っていたし、1939年にはレコードデビューも果たしている。だがテレビ以前の時代、人々が彼女の動く姿を観ようとすれば映画に頼るしかなかったのだ。映画会社はそんな庶民の要望に応える形で、彼女を映画にゲスト出演させた。『アメリカ交響楽』への出演もそのひとつだったのだろう。
だが彼女の映画出演歴は、この『アメリカ交響楽』で一度ストップする。映画会社が彼女にステレオタイプな黒人像を押し付けはじめたことに反発し、映画の世界から距離を置いたようだ。彼女はテレビの世界に可能性を見いだす。1949年から何本かのテレビ番組に出演し、1950年には自分の名前を冠したテレビ番組「ヘイゼル・スコット・ショー」も持つことができた。これはアメリカの黒人としては初の快挙だ。
だがここで彼女は赤狩りに引っかかり、さらに公民権運動にコミットしたことで煙たがられた。せっかくつかんだテレビの仕事は奪われ、彼女はヨーロッパに活動拠点を移さざるを得なくなってしまった。彼女はヨーロッパで歓迎されたが、身の上は政治亡命者のようなものだのかもしれない。
彼女が再びアメリカに戻ったのは、1960年代後半になってからだった。
Hazel Scott
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