1895年12月28日、パリのキャプシーヌ通りにあるグランカフェの地下で、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの有料上映会が開かれたのだ。これが世界で初めての行われた、スクリーン上映式映画の初興行だった。
映画装置自体はこれ以前にエジソンのキネトスコープが実用化されて、世界中に販売されていた。リュミエール兄弟の工夫は、動画を小さな木箱から外に出したことにある。幻灯機の原理を利用して、フィルムに記録されている動画をスクリーンに拡大投影できるようにした。これが我々の知っている「映画」の直接の祖先になった。
リュミエール兄弟の父アントワーヌ(1840〜1911)はもともと肖像画家だったが、写真術に出会って写真技師に転身した人物だ。写真がなかった時代には、画家が依頼人の注文に応じて肖像画を描いた。だが客が求めているのは芸術品ではない。今生きている人の面影を、何らかの形で留めておきたいという欲求があっただけだ。
こうした客たちは、写真術が普及していくとあっという間に肖像画から写真へと移行する。何と言っても写真は肖像画以上に、対象となる人物をそっくりに描くことができる。ここでも写真に求められていたのは芸術性ではなかった。古い時代の写真には、写真の上に顔料で着色したものがあったりするが、あれも写真が「絵」の代用品として用いられていたことのなごりだろう。
アントワーヌが写真師になった当時、写真技師はカメラも感材も自分の手で作らなければならなかった。しかし19世紀後半に乾板写真が発明されると、これを大量生産してプロやアマチュアのカメラマン向けに販売する業者が現れた。アントワーヌはこの流れに乗って、ガラス乾板の工場を作り実業家として成功を収める。
兄のオーギュスト(1862〜1954)と弟のルイ(1864〜1948)は、機械や化学についての技術を学んで父の会社を引き継いだ。父は独学だったが、兄弟は一流の学校で専門教育を受けている。兄弟にとって最初のヒット商品は、高感度の写真感材「エチケットブルー」だった。兄弟はさらにカラー写真や立体写真の研究に向かう。
映画に最初に出会ったのは、父のアントワーヌであったらしい。キネトスコープの存在を知った彼は息子たちに映画の研究をしてみることを薦め、兄弟はそれに従って映画についての研究を始めた。1894年頃のことだ。驚くことに、キネトスコープはあっという間に完成してしまう。兄弟はこれで自分の周囲の風景や仲間たちの映像を撮り始めるが、すぐに飽きたのか再び自分たち本来の研究に戻って行った。
1895年12月のシネマトグラフ上映会は、父アントワーヌが現場で仕切り兄弟はノータッチだった。上映会直後にシネマトグラフを譲ってほしいと申し出たジョルジュ・メリエスに、「映画に未来はない」という有名な言葉を語ったのはアントワーヌだった。
確かに映画に未来はなかった。少なくともリュミエール兄弟にとっては……。
リュミエール社はその後、映画機材の販売やレンタルを行うようになる。機材を売るだけでなく、上映用のフィルムも販売した。最初は兄弟が撮影していたが、やがて契約カメラマンを世界中に派遣して映画を撮影させ、それを世界を相手にカタログ販売するようになる。日本にもリュミエール社の撮影技師がやって来て、当時の日本の風景や風俗を撮影している。
しかしそれからたった数年後、リュミエール社はすべての権利を他社に譲渡して映画事業から撤退した。多くの業者が参入して当初ほど映画ビジネスにうま味がなくなったのかもしれないが、一番の理由はリュミエール兄弟自身が映画ビジネスにさほど興味がなかったことだろう。
映画は工場で生産したカメラや映写機などのハードを売る商売から、上映用のフィルムという映像ソフトを作る商売に変わりつつあった。リュミエール兄弟はカメラや映写機、生フィルムなどの「映画機材」でビジネスをする実業家であって、映像ソフトで大衆の心をつかむ興行師ではなかった。映画ビジネスから撤退した後、リュミエール社は世界初のカラー感材「オートクローム」を発売している。リュミエール兄弟にとっては、映画ビジネスよりもこうした新しい技術の方がよほど面白く、やりがいのある仕事だったのだろう。
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