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2015年3月9日月曜日

『アメリカ交響楽』のヘイゼル・スコット

1945年に作られたガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』には実在のショービジネス関係者が大勢実名で登場しているのだが、その中に紛れてやはり実名で登場するのがヘイゼル・スコット(1920〜1981)だ。

 フランスに渡ったガーシュウィンがナイトクラブを訪れると、そこでピアノを演奏していた彼女が即興でガーシュウィン・メドレーを演奏しながら歌いまくる。

 これはまったく歴史的な事実とは無関係な、映画ならではの創作シーンだろう。ガーシュウィンは1937年に亡くなっているが、その時スコットは17歳。スコットは若くしてショービジネスの世界で成功していたので、ガーシュウィンとどこかですれ違っていそうな気もするが、映画に出てくるような劇的なものではなかったと思う。

 おそらく劇中にミュージカルやレビュー、クラシック演奏のシーンはあってもジャズの場面がほとんどないので、それを補うために彼女の出演シーンを作ったのだと思う。彼女もガーシュウィンと同じで、クラシックとジャズの両方で活躍する演奏家だったからだ。


 IMDbによれば、彼女は1943年から45年にかけて5本の映画に出演している。すべて彼女自身の役としての出演だ。貼り付けてある動画は1943年の映画『I Dood It』からの出演シーン……だと思う。

 本当は『アメリカ交響楽』から引用したかったのだが、YouTubeでは該当する動画を見つけることができなかった。でもこれを観るだけでも、彼女の卓越したテクニックと独特のフィーリングを見て取れることができると思う。

 ヘイゼル・スコットが女優でもないのに当時5本の映画に出演しているのは、彼女に当時それだけの人気があったからだ。1936年にはラジオのレギュラー番組を持っていたし、1939年にはレコードデビューも果たしている。だがテレビ以前の時代、人々が彼女の動く姿を観ようとすれば映画に頼るしかなかったのだ。映画会社はそんな庶民の要望に応える形で、彼女を映画にゲスト出演させた。『アメリカ交響楽』への出演もそのひとつだったのだろう。

 だが彼女の映画出演歴は、この『アメリカ交響楽』で一度ストップする。映画会社が彼女にステレオタイプな黒人像を押し付けはじめたことに反発し、映画の世界から距離を置いたようだ。彼女はテレビの世界に可能性を見いだす。1949年から何本かのテレビ番組に出演し、1950年には自分の名前を冠したテレビ番組「ヘイゼル・スコット・ショー」も持つことができた。これはアメリカの黒人としては初の快挙だ。

 だがここで彼女は赤狩りに引っかかり、さらに公民権運動にコミットしたことで煙たがられた。せっかくつかんだテレビの仕事は奪われ、彼女はヨーロッパに活動拠点を移さざるを得なくなってしまった。彼女はヨーロッパで歓迎されたが、身の上は政治亡命者のようなものだのかもしれない。

 彼女が再びアメリカに戻ったのは、1960年代後半になってからだった。

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2015年3月5日木曜日

アメリカ初の西部劇「大列車強盗」

 映画が発明された当初、映画表現技術の改革はヨーロッパで着々と進み、アメリカはそれに一歩後れを取っていた。だがそれを一気に巻き返したのが、エジソン社で映画を撮っていたエドウィン・S・ポーター(1870〜1941)だ。

 もともと電気技師だったポーターは1898年に最初の映画撮影を試み、翌年にはエジソン社で映画を作り始めた。彼は当時の映画の最新技術を素早く吸収しながら、猛烈なスピードで映画を量産していく。

 当時の映画は1作品15分かせいぜい30分ぐらいの短編ばかりだが、ポーターはそれを年間数十本ペースで撮り続けている。その中でさまざまな試行錯誤をしながら、新しい表現技法を開拓していった。

 彼の代表作として映画史に残るのは、1903年に撮った2本の作品だ。

 1本目は「アメリカ人消防士の生活」という作品で、消防士が燃え盛るアパートから女性を救出する様子を描いたアクション映画だった。これはUSJのアトラクション「バックドラフト」の入口で、行列している客のために流すビデオにも引用されている有名作品だ。


 映画を観るとこの作品には合成があり、クローズアップがあり、ロケーション撮影あり、セット撮影ありで、当時の映画撮影技法がふんだんに盛り込まれ巧みに組み合わせてあることがわかる。逃げ遅れた女性を救出するためアパートに飛び込む消防士の姿を、部屋の外と中から切り返しショットで撮影しているが、これが映画史上初のカットバック編集ということらしい。(でもこれ、カットバックと言うほどのものなのかなぁ……。)

 もう1本はアメリカ映画史上初の西部劇「大列車強盗」だ。これも当時ポーターが持っていた映画表現技術の集大成だが、合成や置き換えなどのトリック撮影を駆使して、猛スピードで走る列車の中での活劇や、強盗たちの凄惨な殺人シーンなどを描いている。


 強盗たちが列車を襲う様子を描く場面と同時並行して、列車が強盗に襲われたことを知らせる技師や強盗たちを追う男たちの姿を描いているが、これが並行モンタージュ(クロスカッティング)になっているのが最大の新しさだろうか。 映画のラストシーンで無法者がスクリーンの中から観客に向かって銃をぶっ放すのも、当時としてはかなりショッキングな演出だったようだ。(たぶん映画館の効果音係が、このシーンに合わせてスリッパを床にたたき付けたり、紙袋を破裂させたりして発砲音を作り出したんだと思う。)

 それ以外にも、列車が事務所を襲撃する場面の背後に侵入してくる列車を合成したり、列車の上の格闘から人間を一瞬にして人形にすり替えたり、金を奪って逃げる男たちの姿からカメラがパンすると逃走用の馬が隠してあるなど、エジソンが映画を発明してから10年で映画技術がここまで進歩していることに驚かされる。

 もちろん現在の目から見て稚拙に思えるところもあるのだが、「この場面は今でも同じように撮るしかないだろう」とか、「このカメラアングルこそがベストポジションだ」と思われる優れたシーンも多い。

 ポーターは1910年頃にエジソン社を退社して1915年までは他社で映画を監督していたが、その後は映画界を去っている。メリエスも同じだが、映画史初期の大物たちは、その多くが1920年代から30年代の映画全盛期を目の前にして映画界を去ってしまう。だが彼らが映画にもたらした功績は、今後も決して忘れられることがないだろう。

 ポーターのもとで映画俳優として映画界入りしたのがD・W・グリフィスなのだが、彼の話はまた別の機会に……。

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2015年2月24日火曜日

残る映画と消える映画

 ダルトン・トランボ(1905〜1979)は赤狩り時代に聴聞会での証言を拒んで議会侮辱罪に問われ、「ハリウッド・テン」として投獄された脚本家だ。

 赤狩り以前の作品にはジンジャー・ロジャースにアカデミー賞をもたらした『恋愛手帖』(1940)があり、トランボもこの映画でオスカー候補になっている。他の作品としては、ドゥーリトル隊による東京初空襲を描く『東京上空三十秒』(1944)が代表作らしい。

 だがトランボの名前を有名にしているのは、『ローマの休日』(1953)だ。現在発売されているDVDでは原作・脚本にトランボの名前がクレジットされているが、当初はそうではなかった。刑務所を出た後もブラックリストに掲載された危険人物としてハリウッドを追放されていたトランボは、この頃自分の名前で仕事をすることができず、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンター(1915〜1991)の名前を借りてこの仕事をしたからだ。

 トランボは『ローマの休日』に関わったことを長く秘密にしていたのだが、やがてこれが明らかになると、映画会社は映画冒頭のクレジット表記をトランボの名前に差し替えた。イアン・マクレラン・ハンターの名は版権切れの古いマスターを使ったDVDなどに残っているが、パラマウントから発売されている正規マスターのDVDはトランボ名義になっているはずだ。

 『ローマの休日』はアカデミー原案賞を受賞したが、その3年後の『黒い牡牛』(1956)でも、トランボはロバート・リッチという変名でアカデミー原案賞を受賞している。監督は『アメリカ交響楽』(1945)や『ガラスの動物園』(1950)アーヴィング・ラパー(1898〜1999)だが、今日『黒い牡牛』を観る人はほとんどいないと思う。僕も観ていない。アカデミー賞を取ったのだからそれなりに面白い映画なのだろうが、映画史の中では「トランボが変名で書いてアカデミー賞を受賞した作品」として記憶されているだけだ。


 映画の中には長い時間がたっても新たなファンを獲得し続ける「残る映画」と、その時代にはウケてもやがて観る人が減り忘れられてしまう「消える映画」がある。トランボの作品であれば、『ローマの休日』は「残る映画」であり、50年後も100年後も観られている作品だろう。だが『黒い牡牛』は「消える映画」だった。

 トランボは赤狩りに負けず変名でアカデミー賞を獲得した「不屈の名脚本家」のように言われることもあるのだが、実際のところはどうなのだろう? トランボは1960年の『栄光への脱出』と『スパルタカス』で正式に脚本家としてクレジットされ、追放から10年目にして劇的なハリウッド復帰を果たす。だが『栄光への脱出』や『スパルタカス』が今後も「残る映画」なのかはちょっと微妙だ。少なくともこれらは『ローマの休日』ほどには観られていない。

 1971年の『ジョニーは戦場へ行った』は、トランボが赤狩り以前に書いた小説をもとに、自ら脚色し、初監督した作品だった。ベトナム戦争時代の反戦や厭戦のも相まって、この作品はヒットしたし高い評価も受けている。今観ても感動的な映画だろう。でもこの映画は「残る映画」だろうか? これは『スパルタカス』よりもっと微妙だと思う……。

 「消える映画」と「残る映画」の違いがどこにあるのかは、同時代の人にはわからない。20年、30年、50年たって、年月がその評価を下す。その時代の中でどれほど大ヒットしても、それが何十年も後になってなお愛され続ける作品になるかどうかはわからない。案外「これは当時大ヒットしました」という評価だけが残り、映画自体は消えてしまうことだってあるかもしれないのだ。

 例えばジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)はどうだろう。これは歴史的な大ヒット映画であり、『ベン・ハー』(1959)が持つアカデミー賞11冠の記録に肩を並べた歴史的な作品でもある。でも『タイタニック』は今でも観られているんだろうか? 今後20年、30年、50年たって、なお新しいファンを獲得し続ける作品としての地位を保っているだろうか? これも結構、微妙な話だと思う。

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2015年2月21日土曜日

『ジョルスン物語』の面白さ

 『ジョルスン物語』(1946)は、アメリカの歌手アル・ジョルスン(1886〜1950)の伝記映画だ。この頃の伝記映画の常で、物語はモデルになった当人の実人生に大幅にフィクションを織り交ぜている。映画の売りは、劇中で歌われている曲だ。映画の中の歌声はすべて、当時まだ存命中だったアル・ジョルスン本人による新録音だった。

 ジョルスンはブロードウェイとハリウッドの両方で、人気の頂点を極めた大歌手だった。その時代に録音されたレコードも残っている。だが彼の活躍時期は1920年代から30年代にかけてで、録音の技術水準はあまり高くなかった。当時の録音を1946年の映画にそのまま持ってくるのはあまりにもお粗末なので、ジョルスンが映画に使う代表的な持ち歌を一通り全部録音し直したわけだ。

 30代のジョルスンと50代のジョルスンとでは、歌唱スタイルは同じでも声の質がだいぶ異なっている。年齢を経たことでキーが少し下がり、より渋く円熟味を増していたのだ。今でもCDなどでジョルスンの歌声を簡単に聴くことができるが、20年代の若く溌剌とした弾むような歌声もいいが、40年代の丸く角が取れた深みのある声も魅力的だ。

 映画はジョルスンの歌以外ほとんどフィクションなのだが、そうなってしまった理由はいくつかある。主人公をはじめモデルになった人たちがまだほとんど存命中だったため、実際のエピソードにするといろいろと差し障りがあったというのがまず第一の理由だろう。

 例えば主人公の妻ジュリー・ベンソンは明らかにルビー・キーラーがモデルだが、キーラーはジョルスンと1940年に離婚したあと再婚して別の家庭を築いていた。そんな人を実名で出せるはずがないし、ジョルスンとの夫婦関係で何があったかを細かく描くのも問題が生じる。映画の中ではジュリーがジョルスンの最初の妻になっているが、じつはジョルスンはキーラーと結婚する前に2度の離婚歴があり、彼女は3人目の妻だった。そのことも映画では伏せられている。

 アル・ジョルスンは世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(1927)に出演して、ブロードウェイの大スターから映画スターになる。当然この話は『ジョルスン物語』にも登場するのだが、それ以前の舞台でのキャリアを描く前半に比べると、映画人としてのジョルスンの描写が薄っぺらなものになってしまうのは残念だ。

 しかしこれもやむを得ない。ジョルスンはワーナー映画のスターで、その後は20世紀フォックスでも何本か映画を撮っている。しかしこの『ジョルスン物語』はワーナーでもフォックスでもなく、それまでジョルスンの映画を1本も作ったことがないコロンビア映画の製作なのだ。『ジョルスン物語』はカラー作品だから、本当ならワーナー時代のモノクロ作品の名場面をカラーで再現したかっただろう。でもそれは権利問題があって不可能な話だった。

 主演のラリー・パークス(1914〜1975)は、この映画でいきなりスター俳優になった。大げさな身振り手振りでダイナミックに熱唱するジョルスンのパフォーマンスを忠実にコピーした彼は、アカデミー賞にもノミネートされている。30歳を過ぎた遅咲きのスターだった。


 ラリー・パークスとジョルスンの声はまったく異なる。台詞から歌に入ると声が変わることがわかるし、そもそもこの映画を観ている1940年代の観客は、ラリー・パークスの声がジョルスン本人の吹替だとみんな知っていただろう。だがそれでも、パークスの歌唱シーンには人を引き込む力がある。口パクと言えばそれまでなのだが、これは天下一品、百点満点の口パクだ。

 ジョルスンはこの映画で声の出演という裏方に徹しているのだが、じつはワンシーンだけ本人役で出演している。ガーシュウィン最初のヒット曲「スワニー」を歌う場面だ。このシーンはカメラが寄らずに終始ロングショット。しかし主人公の足取りや動きが、パークスの演じるジョルスンよりずっとスピーディでエネルギッシュだ。ジョルスンはこの前年の映画『アメリカ交響楽』にも、本人役で出演して「スワニー」を熱唱している。ジョルスンにとっても、これは特別な思い入れがある曲だったのかもしれないな……。

 パークスは続編『ジョルスン再び歌う』(1949)でも同じ役を演じているが、そこではなんと『ジョルスン物語』の製作舞台裏が再現されている。パークスが演じるアル・ジョルスンと、パークス本人が演じるパークスが劇中で顔を合わせて挨拶する場面は、何度観ても面白くてニコニコしてしまう。

 アル・ジョルスンはこの映画のヒットで再び人気歌手の座に返り咲き、大量のレコーディングを行うことになった。そのおかげで今でも音質のいいステレオ録音で、ジョルスン晩年の素晴らしい歌声が聞けるのはありがたい。

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2015年2月20日金曜日

ルビー・キーラーと「ノー、ノー、ナネット」

 ルビー・キーラー(1910〜1993)という女優を知る人は少ないと思う。ワーナー製作のミュージカル映画『四十二番街』(1933)の主演女優だが、彼女の活躍は1930年代にほぼ限定されている。出演作の多くは日本でも公開されているが、どれも戦前の話で、戦後は出演作画公開されていないようだ。

 僕は彼女の映画を観る前から、その名前を知っていた。大歌手アル・ジョルスンの奥さんとしてだ。彼女は1930年に映画に端役デビューしているようだが、それより前の1928年にアル・ジョルスンと結婚しているのだ。

 この結婚については、ある伝説的なエピソードがある。ブロードウェイの舞台「ショーガール」(1929)に出演中のキーラーがガーシュウィンの「ライザ」を歌うフィナーレで、緊張のあまり声が出なくなってしまうという出来事があった。この時たまたま客席にいたのが夫のアル・ジョルスンで、彼はとっさに自分で「ライザ」を歌ってその場を救ったのだという。

 これは「ガーシュウィン歌曲集」のCDの何かに、楽曲の説明として掲載されていた。当時は「いい話だなぁ」と思ったのだが、今では「本当か?」と疑っている。じつはこの場面、ジョルスンの伝記映画『ジョルスン物語』の中で再現されているのだ。伝記映画の中の名場面が、そのまま当人のエピソードとして伝説化したんじゃなかろうか……。

 キーラーはその後、ジョルスンに付き添うように活動の拠点をハリウッドに移す。ジョルスンは既にワーナー映画の大スターだ。彼女が『四十二番街』でいきなり主役に大抜擢されたのは、ブロードウェイでの実績はもちろん、ジョルスンの妻だったという理由が大きかったと思う。

 彼女は小柄で丸顔で、じつは歌もあまり上手くない。声が細くて、音程やテンポにも少し曖昧なところがあるのだ。しかしタップダンスはダイナミック。フレッド・アステアなどの軽やかに滑るようなタップではなく、体重をしっかりかけて、かかとで床を踏み抜くようなダンスを見せる。状態の動きがぎこちなくてバタバタした印象もあるが、それはそれでご愛敬だ。


 『四十二番街』でワーナー・ミュージカルの新しい顔になったキーラーだったが、映画スターとしてのキャリアはさほど長く続かなかった。彼女の活躍は1930年代一杯でおしまい。同じ頃、夫のアル・ジョルスンもやはり映画出演が途絶えてスクリーンからフェードアウト。そしてふたりは1940年に離婚してしまう。

 1946年に公開された『ジョルスン物語』を、キーラーは観ただろうか? 映画の中では彼女に相当する役をイヴリン・キースという大人っぽいムードの女優が演じていたが、外見も雰囲気もキーラーとは似ても似つかない。役名もジュリー・ベンソンに変えてあったし、まあ作り手としても「別人です」ということなのかもしれないけど……。

 彼女はそのあと舞台の仕事に戻って行くが、ブロードウェイで大喝采を浴びることになったのは1971年のミュージカル「ノー、ノー、ナネット」への出演だ。「幸せになりたい」や「二人でお茶を」などのナンバーで知られる、1925年に初演された古いミュージカル作品のリバイバル上演だが、この時キーラーが演出家に指名したのがバスビー・バークレー。『四十二番街』の振付師として彼女を映画スターにした演出家と、今度は舞台でコンビを組んだのだ。


 この時の上演は、出演キャストで楽曲のレコーディングが行われている。キーラーも歌を披露しているが、相変わらず上手くはない。音程やテンポはやっぱり曖昧だ。でもこれがいい。彼女が歌っている場面は、一瞬でそれがルビー・キーラーだとわかる。

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2015年2月19日木曜日

バスビー・バークレーの万華鏡ショット

 1930年代のミュージカル映画で、「個人技」としてのダンスシーンをひとりで完成させてしまったのがフレッド・アステアだとすれば、「群舞」としてのダンスシーンをこれまたひとりで完成させてしまったのがバスビー・バークレー(1895〜1976)だ。

 もともとブロードウェイで振り付けの仕事をしていたが、トーキー革命でミュージカル映画のブームが起きるとハリウッドに仕事場を移した。最初の仕事はエディ・カンター主演の『ウーピー!』(1930)。大勢のダンサーたちがぞろぞろと登場して歌い踊るというパターンは、既にここで披露されている。しかし彼の名声を決定的にしたのは、1933年のワーナー映画『四十二番街』だ。

 バークレーは1950年代まで映画界で活躍しているが、紛れもない代表作と呼べる作品は、1930年代のワーナー時代にあると思う。その後MGMでも振り付けや監督の仕事をしているが、MGMは「空に輝く星よりも多いスターたち」を売りにしたスターシステムの映画会社だったせいか、バークレーお得意の「群舞」の魅力が味わえる作品はあまりないのだ。(それでも奇抜な振り付けで観客を驚かせるナンバーは多い。)

 バークレーの振り付けというのは、基本的に「質より量」なのだ。アステアのダンスが長年のトレーニングとウンザリするほど繰り返される入念なリハーサルによって磨き上げられた個人芸術なのに対し、バークレーのダンスは映画館のスクリーンを埋め尽くす若い美女たちが繰り広げるマスゲームになっている。

 舞台出身のバークレーは、映画の世界で「舞台では表現できないダンスシーン」の演出に挑む。それの代表が、ダンサーたちの群舞を真上から撮影したショットだ。舞台では客席から見て前後の奥行きがあるため、ダンサーを円形に配置して踊らせても、客席からそれが円形に見えることはない。しかし映画なら撮影ステージの上で円を描いて踊るダンサーたちを真上から撮影し、完全な円形を作り出すことが出来る。

 バークレーの映画の中では数十人、場合によっては数百人のダンサーたちが、画面の中で何重もの同心円を描いて踊る。彼らの動きは音楽とシンクロして、万華鏡のような千変万化の幾何学模様を描いていくのだ。

 『四十二番街』でもそうだが、バークレーの演出するダンスシーンは劇中劇として演じられているものが多い。スクリーンの中で演じられているのは、ブロードウェイのミュージカルであったり、ナイトクラブのショーであったりする。だがバークレイの奇想天外なアイデアは、そうした舞台設定の制約を軽々と飛び越えてしまう。


 ダンスシーンが始まった途端に、ステージは本来の大きさの何倍にも何十倍にも拡大し、舞台演出としては不可能なスペクタクルが展開するのだ。目のくらむような数分間のドラマが終わった後、カメラは再びステージの上に戻ってくる。よく考えれば「そんなバカな!」なのだが、そんなことお構いなしなのがバークレー演出の楽しさだろう。

 フレッド・アステアのダンスは、彼と同じだけの才能と努力なしには同水準のものを作ることが出来ないが、バスビー・バークレーのダンスは「質より量」だから模倣されやすい。バークレーの演出する群舞は、ミュージカル映画の定番としてあっという間に消費され尽くしてしまった。

 バークレーは1950年代にハリウッドを去り、再び舞台の世界に戻っていく。(1962年に『ジャンボ』の振り付けを担当しているが、連続したキャリアは50年代で一度途切れている。)ハリウッドでの活動は20年ほどに過ぎない。しかし彼の作り上げたスタイルは今でも多くの映像作家たちに模倣され、ミュージカル映画、CM、PVなどでその影響を見ることができるのだ。

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2015年2月18日水曜日

アステア&ロジャース

 俳優であり歌手であり、もちろんダンサーでもあったフレッド・アステア(1899〜1987)は、ミュージカル映画ファンの間では「ダンスの神様」のように崇拝されている存在だ。他のどんなダンサーが束になってかかっても、この地位は決して揺るがない。

 彼はミュージカルの中心がブロードウェイからハリウッドへ移動していく時その中心にいて、ミュージカル映画のひとつのスタイルを確立した不世出の大スターなのだ。当時のハリウッドはブロードウェイから多くのミュージカル関係者を集めていて、アステアのために多くの一流ソングライターが楽曲を提供することになった。

 コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィンなどが、アステアの映画のために曲を作っている。アステアが映画の中で歌った曲の多くは、今でもスタンダードナンバーとして歌い継がれているが、そのオリジナル歌手はアステアなのだ。

 彼は映画の中でさまざまなダンサーと共演しているのだが、ダンスパートナーで誰が一番だったのかについてはミュージカル映画ファンの中でも議論になる難題だ。しかしこれについて、僕自身はもうずいぶん前に結論が出ている。アステアのパートナーで一番は、誰が何と言おうとジンジャー・ロジャース(1911〜1995)で決まりだ!

 ロジャースはダンサーとしての技量では、アステアの他の共演者たちに比べてだいぶ格下であることは間違いない。ダンスの上手さで言えば、エレノア・パウエルやアン・ミラーの方が断然上手いだろうし、ダンスナンバーでは『イースター・パレード』でジュディ・ガーランドと踊った「素敵なカップル(A Couple of Swells)」が僕のお気に入りだ。『バンド・ワゴン』でシド・チャリシーと踊った「ダンシング・イン・ザ・ダーク」も良かったな。でもこうした映画に出演している頃、アステアは既に「ダンスの神様」だったのだ。パートナーはアステアを尊敬し、崇拝し、彼のダンスの魅力の引き立て役になることが義務づけられていた。

 でもジンジャー・ロジャースは違う。ショービジネスの世界のキャリアではアステアの方が当然大先輩だが、映画の世界に入ったのはロジャースの方が先でキャリアもある。彼女はアステアと組む前から、『四十二番街』や『ゴールド・ディガース』(1933)などの映画でスターになっていた。彼女はアステアを「ダンスの神様」だなんて思っていない。おそらく映画の主役は自分で、それを引き立てるためにアステアが出演していると思っていただろう。


 アステアとロジャースの共演作は、全部で10作品ある。アステアとこれほど大量に共演した女優は、ジンジャー・ロジャース以外には誰もいない。

  1. 空中レヴュー時代(1933/RKO)
  2. コンチネンタル(1934/RKO)
  3. ロバータ(1935/RKO)
  4. トップ・ハット(1935/RKO)
  5. 艦隊を追って(1936/RKO)
  6. 有頂天時代(1936/RKO)
  7. 踊らん哉(1937/RKO)
  8. 気儘時代(1938/RKO)
  9. カッスル夫妻(1939/RKO)
  10. ブロードウェイのバークレー夫妻(1949/MGM)

 『空中レヴュー時代』はアステアもロジャースも主役ではないので、2作目の『コンチネンタル』から『踊らん哉』や『気儘時代』あたりまでがコンビの黄金期だと思う。『カッスル夫妻』はショーダンスで一世を風靡した実在のダンサー夫妻の伝記映画だったこともあり、ダンスのスタイルが必ずしもアステアとロジャースの個性に合っていたとは思えなかったな……。

 アステアとロジャースのコンビ作は日本でもDVDが少し出ているのだが、ストーリー自体は他愛のないものなので、ダンスシーンだけ観たければアメリカ版のDVDを買うのがいいと思う。(日本のアマゾンでも並行輸入業者から購入できます。)字幕なしでも何となく様子はわかると思うしね。あ、リージョンコードの問題があるか……。

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2015年2月17日火曜日

ガーシュインと『アメリカ交響楽』

 『アメリカ交響楽』(1945)は戦後日本ではじめてロードショー公開されたアメリカ映画として、日本のローカルな映画史の中に名前が残っている作品だ。原題は『Rhapsody in Blue』で、同題楽曲の作曲家ジョージ・ガーシュウィン(1898〜1937)の伝記映画ということになっている。

 僕はこの映画をリバイバル公開で観た。最初に観たのがいつだったかは忘れたが、高校生の頃だったか、その後の専門学校時代だったか……。銀座のデザイン会社に勤めている時も、銀座和光の裏にあった銀座文化(現在のシネスイッチ)でちょくちょく上映されていたので、機会があれば足を運んだ。僕は結局この映画を、劇場スクリーンで少なくとも2回か3回ぐらいは観ているんじゃないだろうか。

 別に名作名画というわけではない。映画としては三流品だと思う。この頃の伝記映画の常で、中身はジョージ・ガーシュウィンの生涯をかなり自由に脚色したものになっている。もっともそれには、やむをえない大人の事情もあった。

 ガーシュウィンは晩年にハリウッドで映画の仕事を何本かしているが、それをそのままこの映画の中には使えないのだ。ガーシュウィンが手掛けた『踊らん哉』や『踊る騎士(ナイト)』(どちらも1937年製作)はRKO作品で、遺作となった『華麗なるミュージカル』(1938)はサミュエル・ゴールドウィンの作品。しかしこの『アメリカ交響楽』はワーナー・ブラザースの作品だから、こうした他社の曲は使えない。場面引用や再現も不可能だ。

 舞台や映画でガーシュウィン作品に出演していたフレッド・アステアも、この映画には出て来ない。映画には無名時代のガーシュウィンのオフィスでタップをする若い男が出てくるが、この映画のファンは彼を「アステアもどき」と呼んでいる……。

 だがそれでも、この映画には見どころがたくさんある。映画が作られた1945年は、ガーシュウィンの死からまだ10年もたっていない。生前のガーシュウィンと親交のあった人たちが、本人役で大勢出演しているのだ。

 例えばピアニストのオスカー・レヴァント。ミュージカル映画のファンなら、彼のことを『巴里のアメリカ人』(1951)や『バンド・ワゴン』(1953)などの作品で知っていることだろう。彼はガーシュウィンの理解者であり友人のひとりだったのだが、映画の中にも本人の役で出演し、劇中のピアノはすべて彼が演奏している。

 他にも「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたポール・ホワイトマン。ブロードウェイの大プロデューサーだったジョージ・ホワイト。「ポーギーとベス」の舞台を再現した場面では、初演でベスを演じたアン・ブラウン自身が「サマータイム」を歌っている。そしてアル・ジョルスンが出演している。


 この当時のアル・ジョルスンは往年の大スターで懐メロ歌手だった。しかしワーナー映画でスターになったジョルスンが、ワーナー製作の映画に本人役で出演し、黒塗りの顔で「スワニー」を歌うのだ。「スワニー」はガーシュウィンが世に出るきっかけを作った最初の大ヒット曲で、この場面は映画の中でも一番の見どころだと思う。僕はこの場面を観るたびにいつだってワクワクしてしまうのだ。

 アル・ジョルスンはこの翌年に伝記映画『ジョルスン物語』が製作されて大ヒットし、懐メロ歌手から売れっ子の座に返り咲く。ひょっとしたら、『アメリカ交響楽』はそのきっかけを作った映画なのかもしれない。

 ガーシュウィンの伝記映画はその後、よりリアルで実話に近いものを作るという企画が何度も持ち上がってはポシャっているらしい。でも誰がどんなに工夫をしても、たぶんもう『アメリカ交響楽』以上のガーシュウィン伝は作れないんじゃないだろうか。だって今から誰がどんな映画を作っても、そこにはオスカー・レヴァントもアル・ジョルスンもいないわけだしね……。

 この映画は確かに内容的にはデタラメだが、ガーシュウィンと同じ時代を生き、ガーシュウィンと共に舞台や映画を作っていた人たちが、自分たちの生きた時代を再現しているという意味でとても価値があると思う。

 『アメリカ交響楽』は版権が切れていることもあり、日本でも廉価版のDVDが何種類か販売されている。アメリカではワーナーから正規版が出ているんだけどなぁ。……というわけで、僕は今回この機会に、アメリカ版を購入することにした。アマゾンで並行輸入業者に発注したので、数週間以内に配達されてくると思う。

 アメリカのAmazonの商品説明ではリージョンオールになっていたけど、さて実際のところはどうなんだかなぁ。もっとも我が家にはハワイで買ってきたアメリカ仕様のDVDプレイヤーがあるので、リージョン違いでも問題はないんだけどね。

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