2015年3月24日火曜日

フランシス・F・コッポラとゾーエトロープ

 回転する円盤を使ったフェナキストスコープやヘリオシネグラフの次に現れたのは、ゾーエトロープ(回転のぞき絵)という装置だ。これは円盤ではなく円筒を使うのだが、周囲に細いスリットが入っている。これをターンテーブル(回転台)の上でぐるぐる回すことで、内部に配置されている絵が動画になって見える。

 円盤形の装置ではスリットと絵が常に同じ方向に移動しているのだが、ゾーエトロープではスリットと絵が必ず逆方向に動くようになる。スリットが左から右に移動すれば、対面に配置されている絵は右から左に移動する。

 この手の動画装置では、スリットによって作り出されるシャッターの解放時間を短くすればするほど、鮮明な動画が作り出せる。

 そのための方法は2つある。ひとつは装置の回転を速くすることだ。こうすればスリットが目の前を通り過ぎる時間が短くなって動画は鮮明になるが、それによって動画の再生時間も短くなってしまう。

 もうひとつはスリットの幅を狭くすることだ。スリットの幅を半分にすれば、シャッター速度は2分の1に短縮されてより鮮明な動画が得られる。だがスリット幅が狭くなればなるほど、今度は取り込む光量が少なくなって画面が暗くなっていく。

 ゾーエトロープは装置を円筒形にすることで、円盤形の装置のこうした欠点を克服した。スリットの移動と同時に絵はその逆方向に移動するので、ひとつのスリットの前を絵が通過する時間はずっと短くなる。スリットの幅は同じなので、光量不足も起きない。


 ゾーエトロープは1834年にウィリアム・ジョージ・ホーナー(1786〜1837)というイギリスの数学者が発明した。当初は「ディーダリウム」と名付けられたが、アメリカに紹介される際にゾーエトロープという名前になり、今ではそちらがよく知られている。

 円筒形の装置を作るのは少々面倒だが、中に入れる絵は帯状のものを丸めて放り込むだけなので、動画ソフトの供給という点では円盤形のフェナキストスコープやヘリオシネグラフよりかさばらない。

 映画監督のフランシス・フォード・コッポラは若い頃にこのオモチャの存在を知り、自分の映画製作会社に「アメリカン・ゾエトロープ」という名前を付けた。

 スリットを使ったアニメーションはオモチャとしては滅びたが、今でも地下鉄の窓から見える広告などに利用されることがあるようだ。

2015年3月16日月曜日

アニメーションの元祖フェナキストスコープ

 厚紙に紐を付けてクルクル回すだけのソーマトロープの後に、本格的なアニメーションを実現する玩具が登場する。それがフェナキストスコープだ。

 これは真ん中に穴のあいた円盤に何本かスリット状の穴があけてあって、スリットとスリットの間に少しずつ違う柄の絵が描いてある。この円盤を専用の棒に取り付けてクルクルと回転させれば、あら不思議、描いてある絵が動いて見えるのだ。

 ただしこの時、ただ回転する円盤を眺めているだけでは絵が動かない。円盤の絵柄を鏡に向けて、自分は円盤に付いているスリット越しに、鏡に映っている絵を眺めるのだ。

 フェナキストスコープは日本語で「驚き盤」とも呼ばれるが、たった1枚の円盤で描かれた絵が動いて見えるのは、まさに驚きの体験だ。しかしこれはなぜ動いて見えるのだろうか?

 円盤を回すと、スリットが目の前に来た一瞬だけ鏡に映った絵が見える。しかしそれはすぐに円盤に遮られて見えなくなり、次のスリットが目の前に来た時にはまた一瞬だけ次の絵が見える。しかしそれはまたすぐに遮られて……という繰り返し。


 円盤に等間隔にあけられたスリットが、目の前で、開く→閉じる→開く→閉じるを繰り返す。それに合わせてスリットの向こう側にある絵も、スリット1つ分ずつ移動して次の絵に変わっていく。こうして穴のあいた円盤が、動画再生に必要な間欠運動を実現しているのだ。

 フェナキストスコープはベルギーの科学者ジョセフ・プラトー(1801〜1883)が1831年に発明したと言われている。同時期にオーストリアのサイモン・フォン・スタンプファー(1792〜1864)も同じような装置を発明したそうだ。

 フェナキストスコープを解説した画像を見ると、同一の軸状に2枚の円盤をセットしたものもみつかる。これはヘリオシネグラフという装置なのだが、仕組みとしては鏡に映すフェナキストスコープと同じだ。鏡が身近にあるなら円盤が1枚で済むフェナキストスコープの方が単純だと思うが、大量生産の工業製品として考えた場合は、円盤を2枚使う方が有利だったのかも知れない。

 おそらく工業品として作った場合、一番手間がかかるのは円盤に細いスリットをあける工程なのだ。1枚の円盤に絵とスリットがあるものは、絵を描いた円盤に全部スリットを作らなければならない。学校の実習教材などで円盤をひとつだけ作るならそれでもいいだろうが、工業製品として量産するとなればどうだろう?

 円盤を2枚使うヘリオシネグラフは、スリットの付いた円盤は装置に取り付けたまま、絵の描かれた円盤だけを交換して楽しんだのだろう。絵は印刷すればいいわけだし、円盤の中心に穴をひとつあけるだけならたいした手間ではない。

 フェナキストスコープは単純な装置なので、厚紙を使って自作することができる。作るなら円盤1枚を鏡に映すタイプが簡単だ。この程度のものでも、自分で作ってみるといろいろなことがわかって面白い。

 まず鮮明な動画を得るためには、スリットの幅は狭い方がいい。スリットの幅が狭いほど、その向こう側の絵はシャープに静止して見える。しかしスリットが狭くなるというのは、カメラで言えばシャッタースピードが速くなるのと同じで、見える絵は暗くなる。暗くなれば鮮明さはなくなるので、このあたりのバランスを考えなければならない。

 もうひとつ大事なのは、円盤の絵が描かれていない方(接眼側)を黒く塗りつぶしておくこと。円盤をボール紙で作るなら、片側には黒の画用紙などをピッタリ貼り付けるとか、絵の具やマジックで塗りつぶすとかしておかなければならない。

 人間の目は対照の明るさに合わせて瞳の大きさを変え、自動的に光量を調節する。円盤の接眼側が白いとそれに合わせて瞳の大きさが調節されてしまうため、スリットの向こうは暗くなって何も見えなくなってしまう。目の前で円盤を回転させても、目に見えるのは回転する円盤のこちら側だけになってしまうのだ。(上の写真にあるヘリオシネグラフでも、スリットがある側の円盤が黒くなっているのがわかる。)

 スリットの数は理屈の上では多ければ多いほどいいはずだが、あまり大きくなると円盤自体を大きくしなければならない。手作り工作ならスリットは10〜12ぐらいで十分だと思う。分度器で等間隔に分割するなら、10、12、15ぐらいがキリがいいのかも……。

 スリットの位置は円盤のどこにあってもいい。学校の工作などで作るなら、円盤の円周上から切り込みを入れるようにしてスリットを作った方が、ハサミで作業できて楽だと思う。商品化されているフェナキストスコープやヘリオシネグラフでディスクの内周に穴があけられているのは、その方が円盤が丈夫で長持ちするからだと思う。円周上に切れ込みを作ると、そこから曲がったり破れたりしそうだ。

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2015年3月15日日曜日

ル・プランスを巡るミステリー

 本当の発明者にまつわる伝説というのがある。「あれはダレソレの発明だと言われているが、本当は別のナニガシが発明したのだ」という類の話だ。例えば電話の発明者としてはグラハム・ベルの名前が知られているが、特許出願で彼にたった2時間遅れたばかりに発明者になれなかったイライシャ・グレイという男がいたこともよく知られている。

 発明というのは先行する技術の積み重ねの上に、それを組み合わせて実現される。だから技術が出揃ったところで「あれとこれを組み合わせればこうなる!」というアイデアをほとんど同時に複数の人間が思いつくことはあり得るし、そこからヨーイドンで研究がスタートして、ゴールにほとんど同時に何人もがもなだれ込んでいくこともあり得るわけだ。

 映画の発明についても、これと同じようなことが起きた。映画にまつわる最初の主要な特許を取得したのはエジソンだが、彼に先んじて映画の仕組みを実現していた先駆者も存在した。ルイ・ル・プランス(1841〜1890)はそんな映画の先駆者のひとりだ。

 生まれたのはフランス。父親が銅板写真の発明者ダゲールの友人だった関係で、ル・プランスは幼い頃から写真術に親しんでいたという。成人後はイギリスに移住して工業製品のメーカーに勤めるが、写真を応用した製品やパノラマの制作も行った。やがて彼は「動く写真」の開発に取りかかる。

 パノラマというのは巨大な写真や絵画を360度ぐるりと配置して、中心に立った観客に鑑賞させるというもの。映画興行の先駆として、映画史の本には必ず出てくるものだ。写真術、パノラマ、そして映画……。ル・プランスの生涯は、映画前史をそのままなぞっている。

 彼が発明した最初のカメラは、16個のレンズで16コマの連続写真を撮影するものだった。しかしこれは撮影するたびに視点がずれてしまうので、それだけでは映画にならない。1887年にはこれを改良して1つのレンズで連続写真が撮影できるようになった。こうなるともう、ほとんど映画そのものを発明したと言えるだろう。

 ル・プランスが1888年に撮影した映像が残っている。記録時間はほんの数秒間だが、映像自体は結構鮮明。これはもうほとんど映画と言っていいだろう。



 1990年にル・プランスはこのカメラを売り込むためにアメリカに渡り、その帰路にフランスで列車の中から謎の失踪を遂げる。同時期にエジソンも映画の研究をしていたので、ル・プランスに先を越されたエジソンが彼の発明品に嫉妬して暗殺したのではないか……といった説もあるが、真相はいまだによくわからない。

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2015年3月14日土曜日

ソーマトロープと残像現象

 映画が発明されるよりもずっと昔……、といってもさほど大昔というわけではなく、せいぜい半世紀ぐらい前のこと。ソーマトロープ(Thaumatrope)という玩具が流行したことがある。

 これは2本の紐を取り付けた厚紙の表裏に、異なった絵が印刷されているもの。紐を両手に持ってヨリをかけクルクル回すと、表裏に書かれている絵がひとつに見えるのだ。表に鳥かご、裏に鳥の絵が描かれていれば、クルクル回すことで鳥が鳥かごの中に入る。馬と騎手が別々に描かれていても、クルクル回せば馬に乗った人になる。

 この玩具を誰が発明したのかが、じつは良くわかっていない。Wikipediaにはイギリス人医師のJohn Ayrton Paris、天文学者ジョン・ハーシェル、地質学者William Henry Fitton、あるいはチャールズ・バベッジといった名前が出ているが、おそらくこの仕組み自体は彼らよりずっと以前から知られていただろう。いずれにせよ簡単な仕組みの玩具なので、単純な絵であれば手作りすることも可能だ。


 (YouTubeの動画だと絵の連続はギクシャクしたものになるが、実物を目で見るともっと滑らかに絵がつながるのがわかると思う。動画は連続した絵を細かな静止画に分けて記録しているので、回転速度によっては表裏の絵がうまく交互に見えないのだ。)

 この玩具は人間の目の「残像現象」を利用している。人間の目は信号を遮断されても、その直前に見えていた画像を見えているものとして知覚している。少なくとも短時間の画像の中断をあまり気にしない、大らかで大ざっぱな仕組みになっているのだ。

 これが人間の目や神経の生理的な反応によるものなのか、人間の脳がそのように反応しているのかは学者によっても意見が分かれるようだが、僕は「その両方なんじゃないの?」と思っている。人間の神経系の働きは電気信号と化学反応の組み合わせなので、スイッチを入れて電球が光るような感度の良さは持ち合わせていない。いずれにせよ多少のタイムラグは起きるわけで、それを超える動きは目で追いきれなくなってしまう。

 それ以上に重要なのは脳の働きだ。人間の脳は数分の1秒ぐらいなら、視覚信号の中断を自然に無視するようになっている。おそらくそうしている理由は、人間がまばたきをしているからだと思う。人間は毎日数え切れないほどのまばたきをしているのだが、それが気になったら生活できない。

 まばたきとまばたきの間が何秒なのかは知らないが、人がまばたきをする前と、まばたきを終えて目を開くまでの間には、必ず数分の1秒の視覚刺激の中断があるはずだ。でも人間の脳はその中断を無視して、まばたき前後の視覚情報を頭の中で自動的につなげてしまう。

 人間の目は現実そのものを観ているわけではない。目から入ってくる刺激はまばたきによって数秒ごとに寸断されているのだが、人間はそれをひとつながりの情報として処理するようになっている。

 ソーマトロープはアニメーションや映画のルーツのひとつと言われているが、ここにはまだ「動き」はない。細かな静止画の連続を「動き」として知覚するためには、残像現象ではない別の要素が必要になるのだが、それはまた次回。

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2015年3月9日月曜日

『アメリカ交響楽』のヘイゼル・スコット

1945年に作られたガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』には実在のショービジネス関係者が大勢実名で登場しているのだが、その中に紛れてやはり実名で登場するのがヘイゼル・スコット(1920〜1981)だ。

 フランスに渡ったガーシュウィンがナイトクラブを訪れると、そこでピアノを演奏していた彼女が即興でガーシュウィン・メドレーを演奏しながら歌いまくる。

 これはまったく歴史的な事実とは無関係な、映画ならではの創作シーンだろう。ガーシュウィンは1937年に亡くなっているが、その時スコットは17歳。スコットは若くしてショービジネスの世界で成功していたので、ガーシュウィンとどこかですれ違っていそうな気もするが、映画に出てくるような劇的なものではなかったと思う。

 おそらく劇中にミュージカルやレビュー、クラシック演奏のシーンはあってもジャズの場面がほとんどないので、それを補うために彼女の出演シーンを作ったのだと思う。彼女もガーシュウィンと同じで、クラシックとジャズの両方で活躍する演奏家だったからだ。


 IMDbによれば、彼女は1943年から45年にかけて5本の映画に出演している。すべて彼女自身の役としての出演だ。貼り付けてある動画は1943年の映画『I Dood It』からの出演シーン……だと思う。

 本当は『アメリカ交響楽』から引用したかったのだが、YouTubeでは該当する動画を見つけることができなかった。でもこれを観るだけでも、彼女の卓越したテクニックと独特のフィーリングを見て取れることができると思う。

 ヘイゼル・スコットが女優でもないのに当時5本の映画に出演しているのは、彼女に当時それだけの人気があったからだ。1936年にはラジオのレギュラー番組を持っていたし、1939年にはレコードデビューも果たしている。だがテレビ以前の時代、人々が彼女の動く姿を観ようとすれば映画に頼るしかなかったのだ。映画会社はそんな庶民の要望に応える形で、彼女を映画にゲスト出演させた。『アメリカ交響楽』への出演もそのひとつだったのだろう。

 だが彼女の映画出演歴は、この『アメリカ交響楽』で一度ストップする。映画会社が彼女にステレオタイプな黒人像を押し付けはじめたことに反発し、映画の世界から距離を置いたようだ。彼女はテレビの世界に可能性を見いだす。1949年から何本かのテレビ番組に出演し、1950年には自分の名前を冠したテレビ番組「ヘイゼル・スコット・ショー」も持つことができた。これはアメリカの黒人としては初の快挙だ。

 だがここで彼女は赤狩りに引っかかり、さらに公民権運動にコミットしたことで煙たがられた。せっかくつかんだテレビの仕事は奪われ、彼女はヨーロッパに活動拠点を移さざるを得なくなってしまった。彼女はヨーロッパで歓迎されたが、身の上は政治亡命者のようなものだのかもしれない。

 彼女が再びアメリカに戻ったのは、1960年代後半になってからだった。

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2015年3月6日金曜日

リュミエール兄弟は劇映画の元祖だった

 映画史では一般的に、リュミエール兄弟の作品はドキュメンタリーの元祖で、メリエスの作品は劇映画の元祖だと言われる。

 だがリュミエール兄弟の作品の多くは、純粋なドキュメンタリーというわけではない。日常を切り取ったスケッチ風の作品も確かにあるが、あらかじめ映画の撮影時間を計算し、入念に準備した上で撮影している劇映画も多いのだ。

 有名な作品のひとつに「水をかけられた撒水夫」がある。ホースで庭に水を撒く男を見かけた少年が、ホースを踏みつけて水を止めてしまう。不思議に思った男がホースをのぞき込むと少年はパッと足をどけ、水を撒いていた男は水浸しになってしまう……。


 こんなものは当然だが偶然に撮れるはずがないのであって、明らかに演出された喜劇なのだ。この作品は人気があったようで、シネマトグラフのポスターにもこの作品が描かれている。

 またこの作品は何度もリメイクされているため、どれが最初に撮られたオリジナルなのかが良くわからない。なぜリメイクされるのかと言えば、当時はプリントを複写する手間も、屋外で同じような場面を撮影し直す手間も、あまり変わらなかったからだ。同じように、リュミエール最初の作品として有名な「列車の到着」や「工場の出口」も何度もリメイクされ、どれが最初の上映会で使用されたバージョンなのかがわからない。これ自体が今や、映画史のミステリーになっている。

 「水をかけられた撒水夫」は演出があからさまなのだが、一見演出に見えないけれど、じつな入念に演出されているという作品がリュミエール作品には多い。当時のシネマトグラフはカメラの中に30秒か1分程度のフィルムしか入れられない。やり直しなしの一発撮りで、この30秒〜1分の中に必要なすべてを入れてしまわなければならない。

 例えば「工場の出口」のあるバージョンでは、工場の門扉が開き、工員たちが出てきて、門扉が閉まるまでがピッタリひとつのカットに中に納められていたりする。こんなものは撮影しながら、「はい扉を開いて!」「どんどん出てきて!」「はい、扉閉める!」などと指示を出している様子が目に浮かぶようではないか。


 僕が好きな作品に「雪合戦」がある。これは画面の左右で二手に分かれた男女が雪玉をぶつけ合っていると、道の向こうから自転車に乗った男が現れて雪合戦に巻き込まれ、カメラの前で自転車から転がり落ちる。男はあわてて自転車を起こし、身体をすくめながらもと来た道を引き返していく……という作品だ。


 男が自転車から転げ落ちる位置とタイミングは、まさに入念に計算されつくしている。この位置があと2メートルも前か後ろにずれれば、この作品は成立しなくなってしまうのだ。

 リュミエール兄弟の初期の映画には、1分という短い時間の中で何をどう描くかというアイデアが詰め込まれている。ショート動画でいかに人々の耳目を集めるかに心血を注いでいるという意味で、リュミエール兄弟はユーチューバーの元祖みたいな人だったのかもしれない。

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2015年3月5日木曜日

アメリカ初の西部劇「大列車強盗」

 映画が発明された当初、映画表現技術の改革はヨーロッパで着々と進み、アメリカはそれに一歩後れを取っていた。だがそれを一気に巻き返したのが、エジソン社で映画を撮っていたエドウィン・S・ポーター(1870〜1941)だ。

 もともと電気技師だったポーターは1898年に最初の映画撮影を試み、翌年にはエジソン社で映画を作り始めた。彼は当時の映画の最新技術を素早く吸収しながら、猛烈なスピードで映画を量産していく。

 当時の映画は1作品15分かせいぜい30分ぐらいの短編ばかりだが、ポーターはそれを年間数十本ペースで撮り続けている。その中でさまざまな試行錯誤をしながら、新しい表現技法を開拓していった。

 彼の代表作として映画史に残るのは、1903年に撮った2本の作品だ。

 1本目は「アメリカ人消防士の生活」という作品で、消防士が燃え盛るアパートから女性を救出する様子を描いたアクション映画だった。これはUSJのアトラクション「バックドラフト」の入口で、行列している客のために流すビデオにも引用されている有名作品だ。


 映画を観るとこの作品には合成があり、クローズアップがあり、ロケーション撮影あり、セット撮影ありで、当時の映画撮影技法がふんだんに盛り込まれ巧みに組み合わせてあることがわかる。逃げ遅れた女性を救出するためアパートに飛び込む消防士の姿を、部屋の外と中から切り返しショットで撮影しているが、これが映画史上初のカットバック編集ということらしい。(でもこれ、カットバックと言うほどのものなのかなぁ……。)

 もう1本はアメリカ映画史上初の西部劇「大列車強盗」だ。これも当時ポーターが持っていた映画表現技術の集大成だが、合成や置き換えなどのトリック撮影を駆使して、猛スピードで走る列車の中での活劇や、強盗たちの凄惨な殺人シーンなどを描いている。


 強盗たちが列車を襲う様子を描く場面と同時並行して、列車が強盗に襲われたことを知らせる技師や強盗たちを追う男たちの姿を描いているが、これが並行モンタージュ(クロスカッティング)になっているのが最大の新しさだろうか。 映画のラストシーンで無法者がスクリーンの中から観客に向かって銃をぶっ放すのも、当時としてはかなりショッキングな演出だったようだ。(たぶん映画館の効果音係が、このシーンに合わせてスリッパを床にたたき付けたり、紙袋を破裂させたりして発砲音を作り出したんだと思う。)

 それ以外にも、列車が事務所を襲撃する場面の背後に侵入してくる列車を合成したり、列車の上の格闘から人間を一瞬にして人形にすり替えたり、金を奪って逃げる男たちの姿からカメラがパンすると逃走用の馬が隠してあるなど、エジソンが映画を発明してから10年で映画技術がここまで進歩していることに驚かされる。

 もちろん現在の目から見て稚拙に思えるところもあるのだが、「この場面は今でも同じように撮るしかないだろう」とか、「このカメラアングルこそがベストポジションだ」と思われる優れたシーンも多い。

 ポーターは1910年頃にエジソン社を退社して1915年までは他社で映画を監督していたが、その後は映画界を去っている。メリエスも同じだが、映画史初期の大物たちは、その多くが1920年代から30年代の映画全盛期を目の前にして映画界を去ってしまう。だが彼らが映画にもたらした功績は、今後も決して忘れられることがないだろう。

 ポーターのもとで映画俳優として映画界入りしたのがD・W・グリフィスなのだが、彼の話はまた別の機会に……。

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2015年3月4日水曜日

クローズアップの発明と映像表現の進化

 映画が発明された19世紀の終わり頃、映画に写るものは物珍しいものでなくても構わなかった。人々はスクリーンの中で、日頃見慣れた風景がただ動くというだけで大喜びしていた。

 リュミエール兄弟は自分たちが働く工場の出口を撮影した。駅のホームに汽車が入ってくる場面を撮影した。家族で外出する様子や、赤ん坊の様子を撮影した。カメラをはじめて手にした子供が身の回りのものを片っ端から撮影するように、手当たり次第に自分たちの目に写るものを撮影した。

 この頃の映画は、カメラの中に装填できるフィルムがだいたい30秒から1分程度。フィルムを入れるとその時間を目一杯使って映像を撮りきってしまう。フィルム1本分が1作品で、カメラは固定され、ワンシーンでワンカット。単純なものだ。

 だが映画発明の数年後には、撮影済みのフィルムをつなぎ合わせる技法が生み出される。複数のシーンをつないで、少し長い「おはなし」を作ることができるようになった。カメラポジションを工夫して、カメラを被写体に極端に近づけるクローズアップの技法も考案された。

 クローズアップの技法を使ったもっとも初期の映画に、ジョージ・アルバート・スミス(1864〜1959)の「おばあさんの虫眼鏡」(1900)という作品がある。この作品では子供がおばあさんの虫眼鏡を通して見た世界が、画面に大写しになって現れる。クローズアップの技法はまず、「虫眼鏡で拡大した風景」という理由を添えて観客の前に差し出された。


 おそらくスミスは「虫眼鏡で見る」という説明がなければ、観客がクローズアップに戸惑うと思ったのだろう。ひょっとしたらスミス自身が、クローズアップの異様さに驚いていたのかもしれない。

 だがカメラを被写体に近づけるクローズアップの技法は、あっという間に観客に受け入れられたようだ。「おばあさんの虫眼鏡」を撮ったスミスも、このあとは説明的な描写なしにいきなりクローズアップのショットをつなぐようになる。

 エジソンのキネトスコープが登場したのは1893年。リュミエール兄弟のシネマトグラフが1895年に登場している。それからほんの数年で、映画の表現技法は飛躍的に進化する。

 この時代の映画ばかりを集めた「The Movies Begin」というDVD-BOXがある。これはエミール・レイノーの連続写真からD・W・グリフィスまでを年代順に集めたアンソロジーなのだが、1890年代から1900年代初頭までの映画表現技法の変化は荒削りながら目覚ましいものがある。

 この変化は、生まれたばかりの子犬があっという間に大きくなるのにも似ている。これほど劇的な変化を、映画はもう二度と経験することはないだろう。

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2015年3月3日火曜日

リュミエール兄弟の伝説

 映画の誕生日と言われている日がある。

 1895年12月28日、パリのキャプシーヌ通りにあるグランカフェの地下で、リュミエール兄弟の発明したシネマトグラフの有料上映会が開かれたのだ。これが世界で初めての行われた、スクリーン上映式映画の初興行だった。

 映画装置自体はこれ以前にエジソンのキネトスコープが実用化されて、世界中に販売されていた。リュミエール兄弟の工夫は、動画を小さな木箱から外に出したことにある。幻灯機の原理を利用して、フィルムに記録されている動画をスクリーンに拡大投影できるようにした。これが我々の知っている「映画」の直接の祖先になった。

 リュミエール兄弟の父アントワーヌ(1840〜1911)はもともと肖像画家だったが、写真術に出会って写真技師に転身した人物だ。写真がなかった時代には、画家が依頼人の注文に応じて肖像画を描いた。だが客が求めているのは芸術品ではない。今生きている人の面影を、何らかの形で留めておきたいという欲求があっただけだ。

 こうした客たちは、写真術が普及していくとあっという間に肖像画から写真へと移行する。何と言っても写真は肖像画以上に、対象となる人物をそっくりに描くことができる。ここでも写真に求められていたのは芸術性ではなかった。古い時代の写真には、写真の上に顔料で着色したものがあったりするが、あれも写真が「絵」の代用品として用いられていたことのなごりだろう。

 アントワーヌが写真師になった当時、写真技師はカメラも感材も自分の手で作らなければならなかった。しかし19世紀後半に乾板写真が発明されると、これを大量生産してプロやアマチュアのカメラマン向けに販売する業者が現れた。アントワーヌはこの流れに乗って、ガラス乾板の工場を作り実業家として成功を収める。

 兄のオーギュスト(1862〜1954)と弟のルイ(1864〜1948)は、機械や化学についての技術を学んで父の会社を引き継いだ。父は独学だったが、兄弟は一流の学校で専門教育を受けている。兄弟にとって最初のヒット商品は、高感度の写真感材「エチケットブルー」だった。兄弟はさらにカラー写真や立体写真の研究に向かう。

 映画に最初に出会ったのは、父のアントワーヌであったらしい。キネトスコープの存在を知った彼は息子たちに映画の研究をしてみることを薦め、兄弟はそれに従って映画についての研究を始めた。1894年頃のことだ。驚くことに、キネトスコープはあっという間に完成してしまう。兄弟はこれで自分の周囲の風景や仲間たちの映像を撮り始めるが、すぐに飽きたのか再び自分たち本来の研究に戻って行った。

 1895年12月のシネマトグラフ上映会は、父アントワーヌが現場で仕切り兄弟はノータッチだった。上映会直後にシネマトグラフを譲ってほしいと申し出たジョルジュ・メリエスに、「映画に未来はない」という有名な言葉を語ったのはアントワーヌだった。


 確かに映画に未来はなかった。少なくともリュミエール兄弟にとっては……。

 リュミエール社はその後、映画機材の販売やレンタルを行うようになる。機材を売るだけでなく、上映用のフィルムも販売した。最初は兄弟が撮影していたが、やがて契約カメラマンを世界中に派遣して映画を撮影させ、それを世界を相手にカタログ販売するようになる。日本にもリュミエール社の撮影技師がやって来て、当時の日本の風景や風俗を撮影している。

 しかしそれからたった数年後、リュミエール社はすべての権利を他社に譲渡して映画事業から撤退した。多くの業者が参入して当初ほど映画ビジネスにうま味がなくなったのかもしれないが、一番の理由はリュミエール兄弟自身が映画ビジネスにさほど興味がなかったことだろう。

 映画は工場で生産したカメラや映写機などのハードを売る商売から、上映用のフィルムという映像ソフトを作る商売に変わりつつあった。リュミエール兄弟はカメラや映写機、生フィルムなどの「映画機材」でビジネスをする実業家であって、映像ソフトで大衆の心をつかむ興行師ではなかった。映画ビジネスから撤退した後、リュミエール社は世界初のカラー感材「オートクローム」を発売している。リュミエール兄弟にとっては、映画ビジネスよりもこうした新しい技術の方がよほど面白く、やりがいのある仕事だったのだろう。

2015年3月2日月曜日

ジョルジュ・メリエスと映画のファンタジー

 ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)は、映画史の中で「世界初の」という形容詞がいくつも付けられる人物だ。

 彼は世界初の職業的な映画監督であり、世界初の特撮映画の作り手であり、世界初の映画スターであり、共演者を世界初の女性映画スターにし、映画製作のために世界初の映画撮影スタジオを作っている。

 彼は大きな靴工場の息子に生まれたが、若い頃から奇術に夢中になり、工場の経営は兄たちに任せて自分は奇術師になった。靴職人だった父の血を引いてか手先が器用で創意工夫の才もあり、奇術のネタをあれこれ工夫するのが好きだった。

 奇術は19世紀に人気のあったエンタテインメントだが、メリエスの時代にその全盛時代は終わっていた。メリエスは19世紀末に活躍した、最後の大物奇術師でもあるのだ。親の遺産分与を受けて奇術専用の劇場を買い取り、そこで趣向をこらした出し物を演じて客を楽しませた。

 彼が最初に映画に出会ったのは1895年12月28日のことだった。パリのグランカフェで行われたリュミエール社主催のシネマトグラフ披露会、メリエスも招待されていたのだ。メリエスは奇術師なので、それ以前から幻灯についての知識はある。だが幻灯の中の写真が動き出したことに彼はびっくりした。「この発明品を売ってくれ!」と申し出たメリエスに、リュミエール側が「映画に未来はない」と言って断ったエピソードは、映画史の中の伝説になっている。

 シネマトグラフが手に入れられなかったメリエスは、ロンドンの発明家が同じような装置を作っていると聞くと、まだ未完成だったその装置を購入してきた。これを自分で改造して、実際に撮影と映写ができるように仕上げてしまったのだ。

 メリエスはこの機械を使って、自分でも映画を撮り始める。最初に作ったのは「列車の到着」や「カード遊び」といったリュミエール作品のコピーと、街の風景をそのまま撮影した短いフィルムだ。どれも単純なものだが、これが奇術を観に来た客たちには大評判だった。彼は映画作りにのめり込んで行く。

 メリエスは映画を作りながらストップモーションや多重露光などのトリック撮影技術を編み出し、これを洗練させて他に類をみないファンタジー映画を次々に作った。その集大成が1902年の「月世界旅行」だ。複数のシーンで構成された15分ほどの「長編映画」は大評判となり、世界中で無数の海賊版プリントが出回ったという。


 メリエスにとって映画は奇術の延長だった。彼は映画という新しい技術を使って、ステージ上で演じていた夢あふれる空想の世界を描き出した。だがこうしたメリエス流のファンタジー映画は、やがて少しずつ観客から飽きられてしまう。観客は映画の中に、よりリアルで現実に近い描写を求めたからかもしれない。

 メリエスの創作意欲は衰えなかったが、彼の創作の夢の広がり以上に、20世紀初頭の映画産業は猛スピードで拡張して行った。巨大ビジネスになった映画はさまざまな契約でメリエスを縛り、ビジネスよりも自分の芸術に熱を上げるメリエスは取り残されてしまった。第一次大戦前に彼の映画製作はストップし、戦後にスタジオも人手に渡ってしまう。

 晩年のメリエスの姿がスコセッシの映画『ヒューゴの不思議な発明』(2011)に登場するが、年老いたメリエスが映画の仕事を離れ、鉄道駅の売店でオモチャを売っていたのは事実だ。映画は1930年代に黄金期を迎えるが、その頃になって映画人たちはようやく大先達のメリエスが生活に困窮していることに気づいた。彼はパリ郊外に作られた映画業界人向けの老人ホームに招かれて余生を送ることになった。

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2015年3月1日日曜日

♪エジソンは、偉い人。そ〜んなの〜常識♪

 映画は蓄音機や白熱電球と並んで、アメリカの発明王トーマス・エジソン(1847〜1931)の代表的な発明のひとつとされている。確かにエジソンの研究所で誕生したキネトグラフは世界最初の映画撮影カメラであり、キネトスコープは世界最初の映画再生装置だった。

 だが映画の歴史に詳しい人なら、エジソン研究所で実際に映画の開発を担当したのは、彼に雇われたウィリアム・ディクソン(1860〜1935)という技術者だということを知っている。エジソンは自社従業員の研究成果に、自分の名前をつけて売りだしたのだ。

 これは別に、エジソンが自分の部下の発明を盗んだわけではない。エジソン以前の時代には、天才肌の発明家がひとりでコツコツと新しい発明に挑んでいた。エジソンもそうしたところから出発したはずだ。だが彼はその後、自分の研究所に大勢の研究者や技術者を雇い入れ、その知識と経験と実験成果を共有し合うことで多くの発明を生み出すようになった。エジソンは発明を「個人技」から「集団作業」に変えた。このスタイルは、その後の企業内研究開発などにも引き継がれる。映画もそこから生み出されたものだ。

 エジソンは自身の最初の発明品である「電気式投票機」がまったく売れなかったことから、「売れる発明でなければ意味が無い」というポリシーを持っていた。発明は実用品でなければない。市場ニーズがあってこそ、発明には価値がある。だからエジソンは新しい機会を発明するだけでなく、その発明品を作ったビジネスも同時に考える。

 映画再生装置であるキネトスコープについては、キネトスコープパーラーという商売を生み出した。写真機材メーカーを営むジョージ・イーストマンと協力して、キネトスコープ用に作った35mmフィルムを規格化された商品として大量生産した。これがやがて、スチルカメラ用の35mmフィルムにも転用される。映画の特許を保護するために、他の特許保有者と協力して特許管理会社を作り、無断で特許を侵害する海賊業者を取り締まった。


 映画の発明はエジソンだけの功績ではない。だが映画を「ビジネス」に結びつけた最初の人物はエジソンだと思う。エジソンがいなければ、映画は写真から派生した珍奇な発明品で終わってしまったかもしれない。巡回興行師が持ち歩いて各地の見世物小屋を巡業する、新手の幻灯興行で終わってしまったかもしれない。

 その証拠にエジソン以外の映画の発明者たちは、あっという間に映画の世界から撤退してしまうのだ。動く写真に熱中した発明家たちは、カメラや映写機を作ることで満足し、それを使って何か事業を行おうとはしなかった。彼らの発明は、いわば趣味の世界だ。シネマトグラフを発明したリュミエール兄弟も映画事業は他人に任せていたが、それもたった数年で一切合切を他社に売却している。リュミエール兄弟は映画に興味はあっても、映画ビジネスには興味を持たなかった。

 映画をビジネスにしようとした数少ない例外の中に、ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)がいる。だがメリエスの映画事業は彼自身が一手に管理できる範囲に限られ、それを超えたところで自律的に成長して行く事業に育てることはできなかった。映画の発明者の中で誰よりも早く「映画の商業性」に着目し、事業展開しようとしたのはやはりエジソンだと思う。

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