2015年2月28日土曜日

動画の発明者エミール・レイノー

 毎年10月28日は「国際アニメーションデー」として、国際アニメーションフィルム協会やその各国支部でさまざまなイベントが行われる。これはフランスの発明家エミール・レイノー(1844〜1918)が、1892年に「テアトル・オプティック」というアニメーションの興行をはじめたことにちなんだものだ。

 1892年は「世界最初の映画興行」と言われるシネマトグラフの上映会(1985年12月28日)より3年前になる。エジソンはこの時点でキネトスコープを作っているが、一般へのお披露目はまだだった。つまりテアトル・オプティックは世界で最初の「動く絵」の興行だったのだ。

 しかしこれが「映画」とは呼ばれず、「世界初のアニメーション」であるのには理由がある。テアトル・オプティックで動くのは写真ではなく、手で描いた絵だった。また絵を動かすための原理も、後の映画とはだいぶ異なっている。テアトル・オプティックは少しずつ異なった絵を連続投影することで動きを生み出すという意味で、紛れもなくアニメーションだ。しかしそれはまだ映画ではなかった。

 エミール・レイノーやテアトル・オプティックの名前は映画史の本には必ず出てくるのだが、それが映画とどのように違うのかが僕はよくわからなかった。しかし今は便利な世の中で、YouTubeにテアトル・オプティックの原理を解説した動画がアップロードされている。


 テアトル・オプティックも複数の画像を帯状につなぎ、それを次々に映写機の前に送り出してスクリーンに投影している点では映画と変わらない。だがこの帯がただ映写機のレンズの前を通り過ぎたのでは、スクリーンに投影した画像も流れてしまう。動画を再現するためには、スクリーンに映し出した画像を1コマずつ静止させ、次のコマと入れ替える際の画像のブレを観客の目から隠さなければならない。

 映画はこれを、フィルムの間欠運動とシャッターを利用して実現している。

 間欠運動というのは、動く→止める→動く→止めるという動きのこと。フィルムにはそのために穴が空けられていて、そこに映写機の爪や歯車をひっかけて、映写機のレンズの前に1コマずつ正確に送り込み静止させる。これは上映だけでなく、撮影用カメラでも同じことだ。「動く→止める→動く」という動作を繰り返すため、映写機やカメラからはカチャカチャという独特の音が発生する。(フィルム送りが高速になればジーッという音になる。)

 フィルム1コマ分の映写が終わったら、映写機は素早く次のコマを送り出して映写する。コマとコマが移動している間は、シャッターが光源の光をさえぎって画面を暗くしてしまう。この時間が短ければ、人間の目の錯覚で暗闇を意識することはない(残像効果)。次のコマがレンズの前に来たら、シャッターが開いて次のコマが映写される。シャッターはフィルムを送る装置と連動していて、フィルム移動時に正確に光源をさえぎるよう調節されている。

 これが映画の仕組みだ。だがエミール・レイノーは映画とはまったく別の方法で、この間欠運動を実現させた。

 彼は鏡を使ったのだ。鏡を使って連続した絵から動きを作り出す方法は、レイノー自身がプラキシノスコープという装置で既に実現していた。プラキシノスコープは装置の周辺を取り囲んだ数人でしか見られないが、レイノーはこれをスクリーン投影式に改造した装置も作っている。

 テアトル・オプティックとは、要するにバカでっかい投影式プラキシノスコープなのだ。プラキシノスコープは円筒の内側に配置した、せいぜい10枚程度の絵を動かすことしか出来ない。しかし絵を長い帯状にして鏡の動きと連動させて次々送り出せば、理屈の上では際限なく長い動画を生み出すことができる。

 プラキシノスコープでもテアトル・オプティックでも、鏡の継ぎ目で動画が一瞬だが途切れるところがある。動画がちらつくフリッカーが起きるのだ。そのためテアトル・オプティックでは動画の背景をスライドで静止画像として映写し、プラキシノスコープと同じ方式で生み出した動画と二重投影しているようだ。

 映画の技術を知ってしまった後になれば、エミール・レイノーがこれほど大がかりで手間のかかるものを作ってしまたことがバカバカしく思える。しかしレイノーは自分が手掛けてきて、実績のある技術を使い続けただけなのだ。テアトル・オプティックは映画が発明されて人気を博した後も、1900年まで興行が続けられたという。

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2015年2月27日金曜日

映画発明の寸前まで行った男

 エドワード・マイブリッジ(1830〜1904)は映画の先駆者とされるイギリス出身の写真家だ。20代の頃からはアメリカに渡って仕事をしている。

 1870年頃、当時の知識人たちの間にひとつの論争があった。それは疾走する馬の脚が、一度に全部地面から離れることがあるか否かというものだ。人間の肉眼ではこれがまったくわからない。そこで写真の出番となり、マイブリッジがこれに挑むことになった。

 当時の写真家は、写真機材一式を自ら作る技術者だ。カメラも自分で作り、感材も自分で調合する。マイブリッジは高感度の感材を調合して、走る馬が静止しているかのごとく撮影できるようにした。さらに馬が走るコースに並走してカメラを10数台並べ、コースに細い糸を張ってシャッターと連動させた。馬が走ってこの糸を切断すると、それに合わせて次々にカメラのシャッターが切れる。

 こうしてマイブリッジは馬が走る様子を連続写真として撮影することに成功し、馬はどう走るかという長年の論争に決着を付けたのだ。馬は有史以前から人間の身近な動物だったが、マイブリッジが連続写真で撮影するまで誰もその走り方を知らなかった。マイブリッジの発明は、人間の目では決して見えない世界を写真技術によって解明する革命的なものだった。


 マイブリッジ自身は映画を発明しようとしたわけではない。だがマイブリッジは自分の連続写真を当時既にあった「絵を動かすオモチャ」と組み合わせることで、「動く写真」を作り出すことに気づいた。こうして生まれたのがゾープラクシスコープという装置だが、これは大きな円盤に配置された連続写真をループさせるというもので、1回転でせいぜい数秒の動画しか生み出すことができない。しかしここではじめて「動く写真」が生み出された意義は大きい。


 マイブリッジはその後も自作の写真装置でさまざまな動物を撮影し、やがて人間の動きも撮影するようになった。彼の連続写真は「映画前史」として歴史的な価値があるだけではなく、今でもアニメーターたちの参考資料として現役で使われ続けている。

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2015年2月26日木曜日

ウィリアム・ディクソンと動く写真

 発明王エジソン(1847〜1931)のもとで映画の研究をしていたのは、スコットランド人の発明家ウィリアム・ケネディ・ローリー・ディクソン(1860〜1935)だ。

 エジソンは当初自分の作った蠟管型の蓄音機と同じように、筒型のシリンダーに連続写真を巻き付けるように配置し、それを顕微鏡でのぞくような装置を考えていたらしい。

 ひとつの軸に蠟管式の音声シリンダーと映像用のシリンダーを固定して回転させれば、音声とピッタリシンクロした映像が再生される。エジソンの発想は「映像付きの蓄音機」だった。

 だがディクソンの発想は逆だ。彼は写真の技術に詳しく「動く写真」をいかに実現するかにこだわった。その結果、エジソンの考えたシリンダー型のアイデアを捨てて、より幅の広いセルロイド製のロールフィルムを使用することを考える。その方がより鮮明な映像が作れるからだ。

 フィルムの幅は35mmに決め、フィルムの両側にフィルムを移動させるための穴を等間隔で空けた。35mmフィルムでは映像の縦横比が3:4になり、1コマ当たり左右の穴が4個ずつ並んでいる。これらの規格は、その後もサイレント映画の基本的なフォーマットとして長く使われることになる。

 こうして作られたキネトスコープは大ヒット商品になり、アメリカの大都市には「キネトスコープパーラー」が何ヶ所も作られ、遊技場に設置され、巡回興行師たちはキネトスコープを抱えて世界中で客を集めた。エジソンはキネトスコープと蓄音機を組み合わせたキネトフォンも作っている。やはりエジソンは蓄音機の人なのだった……。

 しかし「動く写真」の地位をキネトスコープやキネトフォンが独占していたのはほんの数年だ。リュミエール兄弟がスクリーン上映式のシネマトグラフを発明すると、観客は大画面の迫力と臨場感に心を奪われてしまう。キネトスコープはあっという間に時代遅れの装置になり、エジソンもあわててスクリーン上映式の装置の権利を買い付けて路線変更を行った。

 だがディクソンはその頃もまだ「動く写真」の研究を行っていた。彼は1905年にエジソンの研究所を離れ、ミュートスコープという新しい動画再生装置を作り出す。ローロデックスという名刺フォルダーがあるが、ミュートスコープはその親玉みたいな機械だ。円環状に配置された写真の束を高速でパラパラとめくり、それをのぞき穴からのぞいて動く写真を楽しむ。映像ソフトの更新は、写真束が装着されたディスクを交換することで行ったのだと思う。


 ミュートスコープはキネトスコープよりずっと鮮明な動画が得られる上に、機械としての耐久性も高い。構造もシンプルなので値段もキネトスコープより安かっただろう。こうして遊技場などに設置された動画再生装置は、あっという間にキネトスコープからミュートスコープに置き換えられてしまった。

 ものの本によればミュートスコープは「比較的最近」まで場末の遊技場などに残っていたという。おそらく1960年代か70年代頃までは、ピンボールマシンやジュークボックスに混じって、遊技場の片隅でほこりをかぶっていたのだろう。現役で稼働するキネトスコープは世界にほとんど残っていないと思うが、ミュートスコープはまだあちこちの博物館で現役で動くものが残されているようだ。

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2015年2月25日水曜日

映画を発明したのは誰?

 マーティン・スコセッシ監督(1942〜)の『ヒューゴの不思議な発明』(2011)は、映画の発明者ジョルジュ・メリエス(1861〜1938)が登場するファンタジー映画だ。

 映画史に詳しい人ならメリエスの名前は知っているだろう。彼は世界で最初の映画監督と言われ、世界で最初に映画スタジオを設立した男であり、世界最初の映画スターでもある。でも彼が映画の発明者?

 そう、メリエスは映画の発明者だった。だが彼がひとりで映画を発明したわけではない。

 映画につながる原理は19世紀の中頃からさまざまな発明家たちが手掛け、それが19世紀末に集大成されて、動画を撮影する機械(カメラ)と、撮影済みの記録メディアから動画を再現する機械(映写機)が作られた。

 映画の発明者としてよく知られているのは、アメリカの発明王エジソン(1847〜1931)やフランスの発明家でオーギュスト(1862〜1954)とルイ(1864〜1948)のリュミエール兄弟かもしれない。ものすごく大ざっぱに解説すると、エジソンは撮影機のキネトグラフと箱形の動画再生装置キネトスコープを発明した。リュミエール兄弟はこれらを参考にして、スクリーン上映式のシネマトグラフを発明した。映画史の教科書では、まあだいたいそういうことになっている。

 だが映画の歴史を紐解けば、エジソンに先立って連続写真の技術を発明したエドワード・マイブリッジ(1830〜1904)がいなければ映画は作れなかっただろうし、連続した映像を連続投影して動かすエミール・レイノー(1844〜1918)のテアトル・オプティークに至っては、ほとんど映画の直前まで到達している発明品だった。

 現在の映画につながる発明品が、エジソンの研究所から生まれたのは事実だ。だがエジソン研究所から生み出される発明品の多くは、エジソンと彼に雇われた研究者や発明家たちの共同作業で作られていた。映画装置であるキネトグラフやキネトスコープをほとんどひとりで発明したのは、スコットランド人の発明家ウィリアム・K・L・ディクソン(1860〜1935)だ。

 彼が1891年頃にエジソン研究所でテスト撮影した映像の断片は、今でも残っていて見ることができる。こうした断片は幾つかあってどれが最古のものかはよくわからないのだが、これらが世界で最も古い映像の一部であることは間違いない。


 ディクソンの発明が基礎になって、映画は最初の10年ほどで飛躍的に技術が高まっていく。そこにリュミエール兄弟やメリエスが参加したのだ。

 リュミエール兄弟は父からキネトスコープの話を聞いて(実物が手もとにあったかは不明)、シネマトグラフを作ってしまった。パリでシネマトグラフの上映を見たメリエスは、自らロンドンまで出向いて未完成の似たような映画装置を仕入れ、それを改良して映画の撮影と上映用の装置を作り上げてしまった。

 この時の工夫の幾つかが、その後の映画に不可欠な特許になった。そのためメリエスは、映画の発明者のひとりになっているわけだ。

 1908年。エジソンが中心になって各社が映画関連の特許を持ちより、互いに利益を分配するための映画特許会社(MPPC)という組織を作った。この組織にはメリエスも参加している。

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2015年2月24日火曜日

残る映画と消える映画

 ダルトン・トランボ(1905〜1979)は赤狩り時代に聴聞会での証言を拒んで議会侮辱罪に問われ、「ハリウッド・テン」として投獄された脚本家だ。

 赤狩り以前の作品にはジンジャー・ロジャースにアカデミー賞をもたらした『恋愛手帖』(1940)があり、トランボもこの映画でオスカー候補になっている。他の作品としては、ドゥーリトル隊による東京初空襲を描く『東京上空三十秒』(1944)が代表作らしい。

 だがトランボの名前を有名にしているのは、『ローマの休日』(1953)だ。現在発売されているDVDでは原作・脚本にトランボの名前がクレジットされているが、当初はそうではなかった。刑務所を出た後もブラックリストに掲載された危険人物としてハリウッドを追放されていたトランボは、この頃自分の名前で仕事をすることができず、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンター(1915〜1991)の名前を借りてこの仕事をしたからだ。

 トランボは『ローマの休日』に関わったことを長く秘密にしていたのだが、やがてこれが明らかになると、映画会社は映画冒頭のクレジット表記をトランボの名前に差し替えた。イアン・マクレラン・ハンターの名は版権切れの古いマスターを使ったDVDなどに残っているが、パラマウントから発売されている正規マスターのDVDはトランボ名義になっているはずだ。

 『ローマの休日』はアカデミー原案賞を受賞したが、その3年後の『黒い牡牛』(1956)でも、トランボはロバート・リッチという変名でアカデミー原案賞を受賞している。監督は『アメリカ交響楽』(1945)や『ガラスの動物園』(1950)アーヴィング・ラパー(1898〜1999)だが、今日『黒い牡牛』を観る人はほとんどいないと思う。僕も観ていない。アカデミー賞を取ったのだからそれなりに面白い映画なのだろうが、映画史の中では「トランボが変名で書いてアカデミー賞を受賞した作品」として記憶されているだけだ。


 映画の中には長い時間がたっても新たなファンを獲得し続ける「残る映画」と、その時代にはウケてもやがて観る人が減り忘れられてしまう「消える映画」がある。トランボの作品であれば、『ローマの休日』は「残る映画」であり、50年後も100年後も観られている作品だろう。だが『黒い牡牛』は「消える映画」だった。

 トランボは赤狩りに負けず変名でアカデミー賞を獲得した「不屈の名脚本家」のように言われることもあるのだが、実際のところはどうなのだろう? トランボは1960年の『栄光への脱出』と『スパルタカス』で正式に脚本家としてクレジットされ、追放から10年目にして劇的なハリウッド復帰を果たす。だが『栄光への脱出』や『スパルタカス』が今後も「残る映画」なのかはちょっと微妙だ。少なくともこれらは『ローマの休日』ほどには観られていない。

 1971年の『ジョニーは戦場へ行った』は、トランボが赤狩り以前に書いた小説をもとに、自ら脚色し、初監督した作品だった。ベトナム戦争時代の反戦や厭戦のも相まって、この作品はヒットしたし高い評価も受けている。今観ても感動的な映画だろう。でもこの映画は「残る映画」だろうか? これは『スパルタカス』よりもっと微妙だと思う……。

 「消える映画」と「残る映画」の違いがどこにあるのかは、同時代の人にはわからない。20年、30年、50年たって、年月がその評価を下す。その時代の中でどれほど大ヒットしても、それが何十年も後になってなお愛され続ける作品になるかどうかはわからない。案外「これは当時大ヒットしました」という評価だけが残り、映画自体は消えてしまうことだってあるかもしれないのだ。

 例えばジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)はどうだろう。これは歴史的な大ヒット映画であり、『ベン・ハー』(1959)が持つアカデミー賞11冠の記録に肩を並べた歴史的な作品でもある。でも『タイタニック』は今でも観られているんだろうか? 今後20年、30年、50年たって、なお新しいファンを獲得し続ける作品としての地位を保っているだろうか? これも結構、微妙な話だと思う。

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2015年2月23日月曜日

エリック・ベントリーの「ハリウッドの反逆」

 ハリウッドの赤狩りで行われていた喚問が具体的にどんなものだったかは、エリック・ベントリーの「ハリウッドの反逆」(小池美佐子訳/影書房)という戯曲にその様子の一端が描かれている。

 これは赤狩り当時の膨大な記録を整理し、再構成した舞台劇。原題は「あなたは今、あるいはかつて(Are you now or have you ever been)」だが、これは下院非米活動委員会(HUAC)が聴聞会に呼び出した証人に対して、「あなたは今、あるいはかつて、共産党員でしたか?」と迫るお決まりの質問から取られている。

 この戯曲はハリウッドが赤狩りによって追い詰められ、自由を失っていく様子が17人の証人の聴聞の様子を通して描かれる。登場するのは以下の人々だ。カッコ内は当時のハリウッド内での肩書きで、※印が付いているのはいわゆる「ハリウッド・テン」のメンバーだ。
  • サム・G・ウッド(プロデューサー・監督)
  • エドワード・ドミートリク(監督)※
  • リング・ラードナー・ジュニア(脚本家)※
  • ラリー・パークス(俳優)
  • スターリング・ヘイドン(俳優)
  • ホセ・ファーラー(俳優)
  • エイブ・バロウズ(脚本家)
  • エリア・カザン(監督)
  • トニー・クレイバー(?)
  • ジェローム・ロビンズ(振付師)
  • エリオット・サリヴァン(俳優)
  • マーティン・バークリー(脚本家)
  • リリアン・ヘルマン(脚本家)
  • マーク・ローレンス(俳優)
  • ライオネル・スタンダー(俳優)
  • アーサー・ミラー(脚本家)
  • ポール・ロブスン(俳優・歌手)
 映画ファンによく知られている人もいれば、まったく無名の人もいることだろう。俳優のラリー・パークスは、おそらくあまり知られていない部類だと思うのだが、僕にとっては『ジョルスン物語』(1946)の主演スター。その彼が赤狩りに引っかかっていたことは知っていたが、実際に委員会に呼び出されてどれだけこってり絞り上げられたかを、僕はこの本を読んで知ったのだ。

 赤狩りはハリウッドを大きく傷つけた。1950年代のハリウッドはテレビの登場で観客が激減するという嵐に見舞われるのだが、本来ならそこで知恵を絞り、共に汗をかいて新しい映画作りに立ち向かわなければならない仲間の多くを失った。ハリウッドは密告が横行する社会となり、それまで大スターから末端のスタッフにまで共有されていた家族的信頼関係は完全に損なわれてしまった。

 長年の仕事仲間で昨日のランチも笑いながら一緒に食っていた親友が、じつは2年前に委員会に呼び出されて自分を密告していた……なんてことがあるのだから、もう誰も信用できないではないか。

 このあたりのギスギスして気まずい雰囲気は、映画『真実の瞬間(とき)』(1991)や『マジェスティック』(2001)にも描かれている。17世紀にアメリカで起きた魔女裁判をモチーフにした戯曲『るつぼ』(1953)で赤狩りを批判したアーサー・ミラーは、その後自らも委員会に呼び出されて議会侮辱罪に問われた。

 戯曲「ハリウッドの反逆」はこの勇ましいタイトルとは裏腹に、アメリカのショービジネス界が政治の前に完全屈服するところで終わっている。
一九五八年ころまでには、あらゆる職業が屈服させられていた。あるものはみずからの手で死を選び、あるものは心臓発作をおこし、多くはブラックリストにのせられ、また多くは偽りの悔悛によって地位を確保し——あるいは改善した。ショー・ビジネス界を対象とする調査は完了したのである。
 アメリカの映画界はその後1960年代初頭まで、赤狩りの余波を引きずることになる。聴聞会に呼び出されたメンバーだけではなく、そこで名前が取りざたされた人、名前が取りざたされたのではないかと噂になった人などが、映画製作に携わるには好ましからざる人々とされてブラックリストに載り、ハリウッドを追放されたのだ。

 ハリウッドから追放された人たちの中には、台頭してきたテレビの世界に新しい活躍の場を見出す人もいた。海外に逃れてそこで作品を発表する人もいた。舞台の世界に戻る人もいた。偽名や変名を使って、秘かにハリウッドの仕事をする人もいた。だが行き場をなくしてショービジネスの世界を離れたり、命を絶ってしまう人もいた。


 ハリウッドの赤狩りについては、政治圧力に屈することなく投獄されることを選んだ「ハリウッド・テン」の勇気がやたらと讃えられたり(その後に何人かの転向者も出るのだが)、「ハリウッド・テン」として映画界を追放された後もさまざまな変名で脚本を書き、アカデミー賞まで受賞してしまったダルトン・トランボ(1905〜1976)のことがしばしば取り上げられることがある。(トランボは1960年に『栄光への脱出』と『スパルタカス』でハリウッドに完全復帰する。)

 でもトランボのような人は、やはりきわめて例外的だと言うしかない。ほとんどの人は、赤狩りでハリウッドを追放されるとそれっきりになってしまったのだ。運良く映画界に復帰できたとしても、キャリアの断絶はその人の人生に致命的なダメージを与えた。ラリー・パークスもそうした犠牲を被ったひとりだ。

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2015年2月22日日曜日

ラリー・パークスと『真実の瞬間(とき)』

 『ジョルスン物語』(1946)に主演したラリー・パークスは、三十路過ぎの遅咲きスターとしてようやく脚光を浴びることができた。受賞は逃したが、アカデミー賞にノミネートされたのは業界内での評価が高かった証拠だ。

 ただ残念なことに、彼はその後はあまり作品に恵まれなかった。リタ・ヘイワーズの相手役をつとめてもパッとせず、結局はヒット作の続編『ジョルスン再び歌う』(1949)に出たりしている。だが彼にとって最悪だったのは、どういうわけか赤狩りのターゲットにされて聴聞会に呼び出されてしまったことだろう。ラリー・パークスの俳優としてのキャリアは、事実上ここで終止符を打たれてしまった。

 赤狩りというのは、第二次大戦後のアメリカで起きた共産主義者に対する弾圧のことだ。アメリカは1920年代から共産主義の拡大を警戒していたが、世界恐慌では社会主義的なニューディール政策を導入して苦境を脱する。第二次大戦中はナチスドイツに対抗するため、ソ連と手を組む必要もあった。だが第二次大戦が終わると、いきなり東西の冷戦が始まる。アメリカを訪問したチャーチルが有名な「鉄のカーテン」についての演説をしたのは1946年のこと。アメリカ国内でも共産主義者や社会主義者は「反社会的な危険思想の持ち主」と見られるようになる。

 赤狩りは別名「マッカーシズム」とも呼ばれるが、これは1950年に「国務省で働いている共産主義者の名簿を持っている」とぶち上げて名を上げたジョセフ・マッカーシー上院議員の名にちなんでいる。だがハリウッドの赤狩りはそれより前から始まった。第二次大戦中に対独協力者の調査を行っていた下院非米活動委員会(HUAC)が、ドイツ敗北後にターゲットを共産主義者に切り替えたのだ。

 委員長のJ・パーネル・トーマスは、赤狩りのターゲットをハリウッドに定める。政治家は自分たちの名前と顔を売ってナンボの商売だ。当時のハリウッドはアメリカ国民にとって最大の娯楽を提供する「夢の工場」であり、人気スターたちの一挙手一投足に世間の目は集まっている。そこで目立った活動ができれば、大手柄として自分の宣伝材料に使えるではないか……。

 ハリウッドは1930年代にブロードウェイの演劇人を大量に雇用しているのに加え、ヨーロッパでナチスが台頭してからは亡命してきた映画人たちを受け入れている。その中には共産主義者やそのシンパが大勢紛れているのだ。叩けば当然大量のホコリが出るに決まっている。

 1947年、HUACはハリウッドの映画人19人(ハリウッド・ナインティーン)に召喚状を送った。このうち11人が証言台に立たされるが、質問の中心は「あなたは現在あるいは過去に共産主義者であったか否か?」だった。

 11人の中で唯一の外国人だったベルトルト・ブレヒト(1898〜1956)は、英語がよくわからない振りをして委員たちの質問を煙に巻き、その後はあっという間に国外逃亡してしまう。残り10人は事前に相談の上で、「思想信条の自由は憲法によって保障されている。自分の思想について答える義務はない」と委員会への協力を拒む作戦をとった。ところがこれが議会侮辱罪になって、10人は刑務所に送られてしまった。ハリウッドで最初に赤狩りの犠牲になった彼らを、「ハリウッド・テン」と呼ぶこともある。


 ハリウッドでは映画人が委員会に告発されたことに対する抗議運動が起こったが、法廷闘争のかいなく1950年にハリウッド・テンの投獄が決まるとこの運動は瓦解した。映画会社の幹部たちは「もしスタジオ内に共産主義者がいるなら厳正に対処する」という宣言を出し、政治家たちに追従する形で事態の収拾をはかろうとする。

 話はここでラリー・パークスに戻る。彼は最初に召喚状を受け取った19人うちのひとりだった。いつ自分が証言台に立たされるかと、ビクビクしながらその日を待っていただろう。だがHUACはブレヒトの逃亡やハリウッド・テンの反逆などに気を取られて、パークスにはいつまでたってもお呼びがかからない。ハリウッド・テンを生け贄に差し出して、HUACも一応の成果を上げたと満足したのだろうか?

 だが赤狩りは終わっていなかった。ハリウッドの赤狩りは「マッカーシズム」の到来と共に第2ラウンドに入る。

 前回の召喚で首の皮1枚つながっていたラリー・パークスは、1951年になってとうとう証言台に立たされる。だがこの時のハリウッドには、ハリウッド・テンが戦っていた時代のような、仲間を守ろうとする雰囲気はもはやなかった。

 委員会で証言を求められたら最後、そこで映画人としてのキャリアは終わってしまうことをパークスは知っていた。委員会に非協力的な態度を取れば、ハリウッド・テンと同じく刑務所行きが待っている。かといって委員会に協力すれば、裏切り者のレッテルを貼られて映画業界からは追放されてしまうだろう。

 パークスは委員会でこう述べている。
「ぼくのキャリアはこれでめちゃめちゃなんですよ、だからどうかこれ以上——委員会侮辱のかどで投獄されるか、泥沼をはいずりまわって密告者になるか、どっちか選べなどと言わないでください!」
 しかしパークスは最後に、追放されることを選んだ。彼には妻のベティ・ギャレット(1919〜2011)とまだ幼いふたりの子供がいて、投獄という選択はあり得なかったからだ。パークスのキャリアはここで終わり、妻のギャレットと共にハリウッドを追放されることになった。

 ハリウッドの赤狩りについては何本かの映画が作られている。ハリウッド映画人のメロドラマに仕立てたのが、バーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォード主演の『追憶』(1973)。コメディ仕立てにしたのは、ジム・キャリー主演の『マジェスティック』(2001)だ。そしてより実録風に審問の様子を再現してみせたのが、ロバート・デ・ニーロ主演の『真実の瞬間(とき)』(1991)だった。

 『真実の瞬間(とき)』は映画としては二流だと思うが、劇中には赤狩り時代に実際に起きたエピソードが多く盛り込まれている。映画は主人公の友人がHUACの委員たちから証言を迫られる場面から始まるが、この場面ではラリー・パークスの実際の証言記録が引用されている。

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2015年2月21日土曜日

『ジョルスン物語』の面白さ

 『ジョルスン物語』(1946)は、アメリカの歌手アル・ジョルスン(1886〜1950)の伝記映画だ。この頃の伝記映画の常で、物語はモデルになった当人の実人生に大幅にフィクションを織り交ぜている。映画の売りは、劇中で歌われている曲だ。映画の中の歌声はすべて、当時まだ存命中だったアル・ジョルスン本人による新録音だった。

 ジョルスンはブロードウェイとハリウッドの両方で、人気の頂点を極めた大歌手だった。その時代に録音されたレコードも残っている。だが彼の活躍時期は1920年代から30年代にかけてで、録音の技術水準はあまり高くなかった。当時の録音を1946年の映画にそのまま持ってくるのはあまりにもお粗末なので、ジョルスンが映画に使う代表的な持ち歌を一通り全部録音し直したわけだ。

 30代のジョルスンと50代のジョルスンとでは、歌唱スタイルは同じでも声の質がだいぶ異なっている。年齢を経たことでキーが少し下がり、より渋く円熟味を増していたのだ。今でもCDなどでジョルスンの歌声を簡単に聴くことができるが、20年代の若く溌剌とした弾むような歌声もいいが、40年代の丸く角が取れた深みのある声も魅力的だ。

 映画はジョルスンの歌以外ほとんどフィクションなのだが、そうなってしまった理由はいくつかある。主人公をはじめモデルになった人たちがまだほとんど存命中だったため、実際のエピソードにするといろいろと差し障りがあったというのがまず第一の理由だろう。

 例えば主人公の妻ジュリー・ベンソンは明らかにルビー・キーラーがモデルだが、キーラーはジョルスンと1940年に離婚したあと再婚して別の家庭を築いていた。そんな人を実名で出せるはずがないし、ジョルスンとの夫婦関係で何があったかを細かく描くのも問題が生じる。映画の中ではジュリーがジョルスンの最初の妻になっているが、じつはジョルスンはキーラーと結婚する前に2度の離婚歴があり、彼女は3人目の妻だった。そのことも映画では伏せられている。

 アル・ジョルスンは世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(1927)に出演して、ブロードウェイの大スターから映画スターになる。当然この話は『ジョルスン物語』にも登場するのだが、それ以前の舞台でのキャリアを描く前半に比べると、映画人としてのジョルスンの描写が薄っぺらなものになってしまうのは残念だ。

 しかしこれもやむを得ない。ジョルスンはワーナー映画のスターで、その後は20世紀フォックスでも何本か映画を撮っている。しかしこの『ジョルスン物語』はワーナーでもフォックスでもなく、それまでジョルスンの映画を1本も作ったことがないコロンビア映画の製作なのだ。『ジョルスン物語』はカラー作品だから、本当ならワーナー時代のモノクロ作品の名場面をカラーで再現したかっただろう。でもそれは権利問題があって不可能な話だった。

 主演のラリー・パークス(1914〜1975)は、この映画でいきなりスター俳優になった。大げさな身振り手振りでダイナミックに熱唱するジョルスンのパフォーマンスを忠実にコピーした彼は、アカデミー賞にもノミネートされている。30歳を過ぎた遅咲きのスターだった。


 ラリー・パークスとジョルスンの声はまったく異なる。台詞から歌に入ると声が変わることがわかるし、そもそもこの映画を観ている1940年代の観客は、ラリー・パークスの声がジョルスン本人の吹替だとみんな知っていただろう。だがそれでも、パークスの歌唱シーンには人を引き込む力がある。口パクと言えばそれまでなのだが、これは天下一品、百点満点の口パクだ。

 ジョルスンはこの映画で声の出演という裏方に徹しているのだが、じつはワンシーンだけ本人役で出演している。ガーシュウィン最初のヒット曲「スワニー」を歌う場面だ。このシーンはカメラが寄らずに終始ロングショット。しかし主人公の足取りや動きが、パークスの演じるジョルスンよりずっとスピーディでエネルギッシュだ。ジョルスンはこの前年の映画『アメリカ交響楽』にも、本人役で出演して「スワニー」を熱唱している。ジョルスンにとっても、これは特別な思い入れがある曲だったのかもしれないな……。

 パークスは続編『ジョルスン再び歌う』(1949)でも同じ役を演じているが、そこではなんと『ジョルスン物語』の製作舞台裏が再現されている。パークスが演じるアル・ジョルスンと、パークス本人が演じるパークスが劇中で顔を合わせて挨拶する場面は、何度観ても面白くてニコニコしてしまう。

 アル・ジョルスンはこの映画のヒットで再び人気歌手の座に返り咲き、大量のレコーディングを行うことになった。そのおかげで今でも音質のいいステレオ録音で、ジョルスン晩年の素晴らしい歌声が聞けるのはありがたい。

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2015年2月20日金曜日

ルビー・キーラーと「ノー、ノー、ナネット」

 ルビー・キーラー(1910〜1993)という女優を知る人は少ないと思う。ワーナー製作のミュージカル映画『四十二番街』(1933)の主演女優だが、彼女の活躍は1930年代にほぼ限定されている。出演作の多くは日本でも公開されているが、どれも戦前の話で、戦後は出演作画公開されていないようだ。

 僕は彼女の映画を観る前から、その名前を知っていた。大歌手アル・ジョルスンの奥さんとしてだ。彼女は1930年に映画に端役デビューしているようだが、それより前の1928年にアル・ジョルスンと結婚しているのだ。

 この結婚については、ある伝説的なエピソードがある。ブロードウェイの舞台「ショーガール」(1929)に出演中のキーラーがガーシュウィンの「ライザ」を歌うフィナーレで、緊張のあまり声が出なくなってしまうという出来事があった。この時たまたま客席にいたのが夫のアル・ジョルスンで、彼はとっさに自分で「ライザ」を歌ってその場を救ったのだという。

 これは「ガーシュウィン歌曲集」のCDの何かに、楽曲の説明として掲載されていた。当時は「いい話だなぁ」と思ったのだが、今では「本当か?」と疑っている。じつはこの場面、ジョルスンの伝記映画『ジョルスン物語』の中で再現されているのだ。伝記映画の中の名場面が、そのまま当人のエピソードとして伝説化したんじゃなかろうか……。

 キーラーはその後、ジョルスンに付き添うように活動の拠点をハリウッドに移す。ジョルスンは既にワーナー映画の大スターだ。彼女が『四十二番街』でいきなり主役に大抜擢されたのは、ブロードウェイでの実績はもちろん、ジョルスンの妻だったという理由が大きかったと思う。

 彼女は小柄で丸顔で、じつは歌もあまり上手くない。声が細くて、音程やテンポにも少し曖昧なところがあるのだ。しかしタップダンスはダイナミック。フレッド・アステアなどの軽やかに滑るようなタップではなく、体重をしっかりかけて、かかとで床を踏み抜くようなダンスを見せる。状態の動きがぎこちなくてバタバタした印象もあるが、それはそれでご愛敬だ。


 『四十二番街』でワーナー・ミュージカルの新しい顔になったキーラーだったが、映画スターとしてのキャリアはさほど長く続かなかった。彼女の活躍は1930年代一杯でおしまい。同じ頃、夫のアル・ジョルスンもやはり映画出演が途絶えてスクリーンからフェードアウト。そしてふたりは1940年に離婚してしまう。

 1946年に公開された『ジョルスン物語』を、キーラーは観ただろうか? 映画の中では彼女に相当する役をイヴリン・キースという大人っぽいムードの女優が演じていたが、外見も雰囲気もキーラーとは似ても似つかない。役名もジュリー・ベンソンに変えてあったし、まあ作り手としても「別人です」ということなのかもしれないけど……。

 彼女はそのあと舞台の仕事に戻って行くが、ブロードウェイで大喝采を浴びることになったのは1971年のミュージカル「ノー、ノー、ナネット」への出演だ。「幸せになりたい」や「二人でお茶を」などのナンバーで知られる、1925年に初演された古いミュージカル作品のリバイバル上演だが、この時キーラーが演出家に指名したのがバスビー・バークレー。『四十二番街』の振付師として彼女を映画スターにした演出家と、今度は舞台でコンビを組んだのだ。


 この時の上演は、出演キャストで楽曲のレコーディングが行われている。キーラーも歌を披露しているが、相変わらず上手くはない。音程やテンポはやっぱり曖昧だ。でもこれがいい。彼女が歌っている場面は、一瞬でそれがルビー・キーラーだとわかる。

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2015年2月19日木曜日

バスビー・バークレーの万華鏡ショット

 1930年代のミュージカル映画で、「個人技」としてのダンスシーンをひとりで完成させてしまったのがフレッド・アステアだとすれば、「群舞」としてのダンスシーンをこれまたひとりで完成させてしまったのがバスビー・バークレー(1895〜1976)だ。

 もともとブロードウェイで振り付けの仕事をしていたが、トーキー革命でミュージカル映画のブームが起きるとハリウッドに仕事場を移した。最初の仕事はエディ・カンター主演の『ウーピー!』(1930)。大勢のダンサーたちがぞろぞろと登場して歌い踊るというパターンは、既にここで披露されている。しかし彼の名声を決定的にしたのは、1933年のワーナー映画『四十二番街』だ。

 バークレーは1950年代まで映画界で活躍しているが、紛れもない代表作と呼べる作品は、1930年代のワーナー時代にあると思う。その後MGMでも振り付けや監督の仕事をしているが、MGMは「空に輝く星よりも多いスターたち」を売りにしたスターシステムの映画会社だったせいか、バークレーお得意の「群舞」の魅力が味わえる作品はあまりないのだ。(それでも奇抜な振り付けで観客を驚かせるナンバーは多い。)

 バークレーの振り付けというのは、基本的に「質より量」なのだ。アステアのダンスが長年のトレーニングとウンザリするほど繰り返される入念なリハーサルによって磨き上げられた個人芸術なのに対し、バークレーのダンスは映画館のスクリーンを埋め尽くす若い美女たちが繰り広げるマスゲームになっている。

 舞台出身のバークレーは、映画の世界で「舞台では表現できないダンスシーン」の演出に挑む。それの代表が、ダンサーたちの群舞を真上から撮影したショットだ。舞台では客席から見て前後の奥行きがあるため、ダンサーを円形に配置して踊らせても、客席からそれが円形に見えることはない。しかし映画なら撮影ステージの上で円を描いて踊るダンサーたちを真上から撮影し、完全な円形を作り出すことが出来る。

 バークレーの映画の中では数十人、場合によっては数百人のダンサーたちが、画面の中で何重もの同心円を描いて踊る。彼らの動きは音楽とシンクロして、万華鏡のような千変万化の幾何学模様を描いていくのだ。

 『四十二番街』でもそうだが、バークレーの演出するダンスシーンは劇中劇として演じられているものが多い。スクリーンの中で演じられているのは、ブロードウェイのミュージカルであったり、ナイトクラブのショーであったりする。だがバークレイの奇想天外なアイデアは、そうした舞台設定の制約を軽々と飛び越えてしまう。


 ダンスシーンが始まった途端に、ステージは本来の大きさの何倍にも何十倍にも拡大し、舞台演出としては不可能なスペクタクルが展開するのだ。目のくらむような数分間のドラマが終わった後、カメラは再びステージの上に戻ってくる。よく考えれば「そんなバカな!」なのだが、そんなことお構いなしなのがバークレー演出の楽しさだろう。

 フレッド・アステアのダンスは、彼と同じだけの才能と努力なしには同水準のものを作ることが出来ないが、バスビー・バークレーのダンスは「質より量」だから模倣されやすい。バークレーの演出する群舞は、ミュージカル映画の定番としてあっという間に消費され尽くしてしまった。

 バークレーは1950年代にハリウッドを去り、再び舞台の世界に戻っていく。(1962年に『ジャンボ』の振り付けを担当しているが、連続したキャリアは50年代で一度途切れている。)ハリウッドでの活動は20年ほどに過ぎない。しかし彼の作り上げたスタイルは今でも多くの映像作家たちに模倣され、ミュージカル映画、CM、PVなどでその影響を見ることができるのだ。

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2015年2月18日水曜日

アステア&ロジャース

 俳優であり歌手であり、もちろんダンサーでもあったフレッド・アステア(1899〜1987)は、ミュージカル映画ファンの間では「ダンスの神様」のように崇拝されている存在だ。他のどんなダンサーが束になってかかっても、この地位は決して揺るがない。

 彼はミュージカルの中心がブロードウェイからハリウッドへ移動していく時その中心にいて、ミュージカル映画のひとつのスタイルを確立した不世出の大スターなのだ。当時のハリウッドはブロードウェイから多くのミュージカル関係者を集めていて、アステアのために多くの一流ソングライターが楽曲を提供することになった。

 コール・ポーター、アーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィンなどが、アステアの映画のために曲を作っている。アステアが映画の中で歌った曲の多くは、今でもスタンダードナンバーとして歌い継がれているが、そのオリジナル歌手はアステアなのだ。

 彼は映画の中でさまざまなダンサーと共演しているのだが、ダンスパートナーで誰が一番だったのかについてはミュージカル映画ファンの中でも議論になる難題だ。しかしこれについて、僕自身はもうずいぶん前に結論が出ている。アステアのパートナーで一番は、誰が何と言おうとジンジャー・ロジャース(1911〜1995)で決まりだ!

 ロジャースはダンサーとしての技量では、アステアの他の共演者たちに比べてだいぶ格下であることは間違いない。ダンスの上手さで言えば、エレノア・パウエルやアン・ミラーの方が断然上手いだろうし、ダンスナンバーでは『イースター・パレード』でジュディ・ガーランドと踊った「素敵なカップル(A Couple of Swells)」が僕のお気に入りだ。『バンド・ワゴン』でシド・チャリシーと踊った「ダンシング・イン・ザ・ダーク」も良かったな。でもこうした映画に出演している頃、アステアは既に「ダンスの神様」だったのだ。パートナーはアステアを尊敬し、崇拝し、彼のダンスの魅力の引き立て役になることが義務づけられていた。

 でもジンジャー・ロジャースは違う。ショービジネスの世界のキャリアではアステアの方が当然大先輩だが、映画の世界に入ったのはロジャースの方が先でキャリアもある。彼女はアステアと組む前から、『四十二番街』や『ゴールド・ディガース』(1933)などの映画でスターになっていた。彼女はアステアを「ダンスの神様」だなんて思っていない。おそらく映画の主役は自分で、それを引き立てるためにアステアが出演していると思っていただろう。


 アステアとロジャースの共演作は、全部で10作品ある。アステアとこれほど大量に共演した女優は、ジンジャー・ロジャース以外には誰もいない。

  1. 空中レヴュー時代(1933/RKO)
  2. コンチネンタル(1934/RKO)
  3. ロバータ(1935/RKO)
  4. トップ・ハット(1935/RKO)
  5. 艦隊を追って(1936/RKO)
  6. 有頂天時代(1936/RKO)
  7. 踊らん哉(1937/RKO)
  8. 気儘時代(1938/RKO)
  9. カッスル夫妻(1939/RKO)
  10. ブロードウェイのバークレー夫妻(1949/MGM)

 『空中レヴュー時代』はアステアもロジャースも主役ではないので、2作目の『コンチネンタル』から『踊らん哉』や『気儘時代』あたりまでがコンビの黄金期だと思う。『カッスル夫妻』はショーダンスで一世を風靡した実在のダンサー夫妻の伝記映画だったこともあり、ダンスのスタイルが必ずしもアステアとロジャースの個性に合っていたとは思えなかったな……。

 アステアとロジャースのコンビ作は日本でもDVDが少し出ているのだが、ストーリー自体は他愛のないものなので、ダンスシーンだけ観たければアメリカ版のDVDを買うのがいいと思う。(日本のアマゾンでも並行輸入業者から購入できます。)字幕なしでも何となく様子はわかると思うしね。あ、リージョンコードの問題があるか……。

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2015年2月17日火曜日

ガーシュインと『アメリカ交響楽』

 『アメリカ交響楽』(1945)は戦後日本ではじめてロードショー公開されたアメリカ映画として、日本のローカルな映画史の中に名前が残っている作品だ。原題は『Rhapsody in Blue』で、同題楽曲の作曲家ジョージ・ガーシュウィン(1898〜1937)の伝記映画ということになっている。

 僕はこの映画をリバイバル公開で観た。最初に観たのがいつだったかは忘れたが、高校生の頃だったか、その後の専門学校時代だったか……。銀座のデザイン会社に勤めている時も、銀座和光の裏にあった銀座文化(現在のシネスイッチ)でちょくちょく上映されていたので、機会があれば足を運んだ。僕は結局この映画を、劇場スクリーンで少なくとも2回か3回ぐらいは観ているんじゃないだろうか。

 別に名作名画というわけではない。映画としては三流品だと思う。この頃の伝記映画の常で、中身はジョージ・ガーシュウィンの生涯をかなり自由に脚色したものになっている。もっともそれには、やむをえない大人の事情もあった。

 ガーシュウィンは晩年にハリウッドで映画の仕事を何本かしているが、それをそのままこの映画の中には使えないのだ。ガーシュウィンが手掛けた『踊らん哉』や『踊る騎士(ナイト)』(どちらも1937年製作)はRKO作品で、遺作となった『華麗なるミュージカル』(1938)はサミュエル・ゴールドウィンの作品。しかしこの『アメリカ交響楽』はワーナー・ブラザースの作品だから、こうした他社の曲は使えない。場面引用や再現も不可能だ。

 舞台や映画でガーシュウィン作品に出演していたフレッド・アステアも、この映画には出て来ない。映画には無名時代のガーシュウィンのオフィスでタップをする若い男が出てくるが、この映画のファンは彼を「アステアもどき」と呼んでいる……。

 だがそれでも、この映画には見どころがたくさんある。映画が作られた1945年は、ガーシュウィンの死からまだ10年もたっていない。生前のガーシュウィンと親交のあった人たちが、本人役で大勢出演しているのだ。

 例えばピアニストのオスカー・レヴァント。ミュージカル映画のファンなら、彼のことを『巴里のアメリカ人』(1951)や『バンド・ワゴン』(1953)などの作品で知っていることだろう。彼はガーシュウィンの理解者であり友人のひとりだったのだが、映画の中にも本人の役で出演し、劇中のピアノはすべて彼が演奏している。

 他にも「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたポール・ホワイトマン。ブロードウェイの大プロデューサーだったジョージ・ホワイト。「ポーギーとベス」の舞台を再現した場面では、初演でベスを演じたアン・ブラウン自身が「サマータイム」を歌っている。そしてアル・ジョルスンが出演している。


 この当時のアル・ジョルスンは往年の大スターで懐メロ歌手だった。しかしワーナー映画でスターになったジョルスンが、ワーナー製作の映画に本人役で出演し、黒塗りの顔で「スワニー」を歌うのだ。「スワニー」はガーシュウィンが世に出るきっかけを作った最初の大ヒット曲で、この場面は映画の中でも一番の見どころだと思う。僕はこの場面を観るたびにいつだってワクワクしてしまうのだ。

 アル・ジョルスンはこの翌年に伝記映画『ジョルスン物語』が製作されて大ヒットし、懐メロ歌手から売れっ子の座に返り咲く。ひょっとしたら、『アメリカ交響楽』はそのきっかけを作った映画なのかもしれない。

 ガーシュウィンの伝記映画はその後、よりリアルで実話に近いものを作るという企画が何度も持ち上がってはポシャっているらしい。でも誰がどんなに工夫をしても、たぶんもう『アメリカ交響楽』以上のガーシュウィン伝は作れないんじゃないだろうか。だって今から誰がどんな映画を作っても、そこにはオスカー・レヴァントもアル・ジョルスンもいないわけだしね……。

 この映画は確かに内容的にはデタラメだが、ガーシュウィンと同じ時代を生き、ガーシュウィンと共に舞台や映画を作っていた人たちが、自分たちの生きた時代を再現しているという意味でとても価値があると思う。

 『アメリカ交響楽』は版権が切れていることもあり、日本でも廉価版のDVDが何種類か販売されている。アメリカではワーナーから正規版が出ているんだけどなぁ。……というわけで、僕は今回この機会に、アメリカ版を購入することにした。アマゾンで並行輸入業者に発注したので、数週間以内に配達されてくると思う。

 アメリカのAmazonの商品説明ではリージョンオールになっていたけど、さて実際のところはどうなんだかなぁ。もっとも我が家にはハワイで買ってきたアメリカ仕様のDVDプレイヤーがあるので、リージョン違いでも問題はないんだけどね。

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2015年2月16日月曜日

トーキーに抵抗したチャップリン

 最初のトーキー『ジャズ・シンガー』が1927年に公開されると、映画界はあっという間にトーキー化の波に飲み込まれた。1930年頃にはアメリカ以外の国でも本格的なトーキー作品の第1弾が作られているし、アメリカの映画興行界も同じ頃にはほとんどトーキー化が完了していたという。ものすごいスピードだ。

 1929年には世界大恐慌が起きているので、『ジャズ・シンガー』がそれ以降に公開されていたらトーキー革命はまったく違った結果を生み出した可能性もある。だが歴史に「もしも」はない。結果がすべてなのだ。

 トーキーが登場した時点で多くの映画業界人が危惧していたように、台詞や音楽の入った映画は「映画芸術」の表現を後退させた。自由なカメラワークや編集技法が台詞によって制約され、映画は20年以上前の「撮影された舞台劇」のスタイルに逆戻りしてしまったのだ。だがこうした退行は一時的なものだった。映画人たちは創意工夫でトーキーの欠点を克服し、1930年代には流麗な映画芸術の輝きを取り戻す。映画は「音」を手にすることで、それまで以上の表現を身に着けたのだ。

 だがそんなトーキー革命の波を、横目でじっとにらんだまま動かない男がいた。映画スターであり、プロデューサーであり、映画監督でもあったチャールズ・チャップリン(1889〜1977)だ。

 彼は1928年の『サーカス』をサイレント映画として作る。『ジャズ・シンガー』の翌年だが、当時はまだサイレント映画もたくさん作られていたので、これは別に特別なことではない。だがそれ以降はどうだ? 1931年の『街の灯』はサウンド版でBGMは録音されているが、登場人物の台詞はそれまで通りの字幕処理だ。前記したとおり、ハリウッドのトーキー化は1930年頃には完了している。サウンド版の『街の灯』は、当時としては既に古いスタイルの映画だった。

 チャップリンの次の作品は1936年の『モダン・タイムス』だ。同時期にはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画もあれば、フランク・キャプラの軽妙なコメディ映画も作られている。映画の中では登場人物たちが丁々発止の掛け合いを演じ、音楽に合わせて歌ったり踊ったりするのが当たり前だった。それでもチャップリンは「無声」にこだわり続ける。

 ただし『モダン・タイムス』には1箇所だけ、チャップリン扮するウェイターがデタラメな歌を披露する場面がある。しかしそれだけだった。チャップリンは頑なに「台詞」を拒み続けた。

 チャップリンが本格的なトーキー作品を作ったのは、1940年の『独裁者』が初めてだ。『ジャズ・シンガー』から13年たっている。周回遅れどころではなく、ハリウッドの技術的な流れから3周も5周も遅れて、チャップリンはようやく主人公が台詞をしゃべる映画を作った。


『独裁者』は立派な映画だ。ラストシーンの演説はいつの時代も観る人を感動させるに違いない。だがこの映画には、それ以前のチャップリン映画に必ず登場する山高帽の浮浪者はもう登場しない。これ以降のチャップリン映画もすべてそうだ。

 チャップリンはトーキーで「声」を手に入れるのと引き替えに、サイレント時代から人々が愛して止まなかったキャラクターを捨て去った。浮浪者チャーリーは、トーキーによって殺されたのだ。

2015年2月15日日曜日

『ジャズ・シンガー』の衝撃


 世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927)は、現在ワーナーから日本版のBlu-rayが発売されている。僕はこれと同じ内容の米盤DVDを既に持っているので、買おうかどうしようか思案中だ。米盤DVDが出た時点で、「こんなもの絶対に日本じゃ発売されない!」と思って買ったんだけど、まさか出るとはなぁ……。

 トーキーとは「トーキング・ピクチャー」の略で、日本では「発声映画」と翻訳されていたこともあるようだ。『ジャズ・シンガー』は世界初のトーキー映画と言われているが、実際はパートトーキー作品。この映画はサウンドシステムと同期していて、劇中のBGMや歌などは画面とシンクロして流れている。だが台詞の多くは、サイレント映画と同じようにほとんどが台詞字幕(スポークンタイトル)で処理されていのだ。「トーキー」とは言われていても、実際に「トーク」している部分はほとんどない。

 じつはこの映画、最初はまったく「トーク」の予定がないまま製作されていたのだ。台詞は完全に字幕に任せて、サウンドシステムで処理するのは歌と伴奏のみ。トーキー映画は当初「台詞入りの映画」ではなく、「伴奏付きのサイレント映画」として実用化されたのだ。

 サイレント映画の時代、都市部の大きな映画館にはオーケストラピットがあり、そこで大編成のオーケストラが映画用の音楽を演奏していた。中小の劇場にも小編成のバンドが入っていたし、1台でさまざまな音色が出せるシネマオルガンが設置されていた。それよりも小さな場末の小屋でも、最低限専属のピアニストがいて映画のための音楽を奏でていたのだ。映画のサウンドシステムは、劇場専属の音楽家を不要なものにできる。サウンドシステムの導入に何かしらのコストがかかっても、オーケストラに支払うギャラが不要になるのだから、遠からず費用は回収できてしまう。

 ワーナーは『ジャズ・シンガー』の前年に『ドンファン』というサウンド版の映画を公開済みで、これがある程度成功したことから歌入りの『ジャズ・シンガー』を製作した。ところが映画の撮影に慣れていない主演のアル・ジョルスンは、劇中で1曲披露した後にアドリブで台詞をしゃべりはじめる。
 「Wait a minute, wait a minute, you ain't heard nothin' yet(待った待った。お楽しみはこれからだ)」

 まったく予定されていなかった台詞で、監督はカットをかけてNGにしようとしたが、撮影に立ち会っていたプロデューサーのダリル・F・ザナックがOKにして、これが映画史に残る決め台詞になったのだという。もっともこの話、いささか出来すぎているような気がしなくもないのだが……。

 1920年代はサイレント映画の表現技法が洗練され、多くの映画人たちが「新しい芸術家」として認知されつつある時期だった。映画には台詞がないからこそ、そこに観客の想像力をかき立てる芸術性が生まれる。映画に台詞が入ることは、映画が新しい芸術としての地位を捨て、舞台劇に逆戻りすることだと考えられていた。

 「トーキー映画はゲテモノだ」「こんなものは発明家の作ったオモチャだ」というのが、当時の映画業界の多数派意見。ところが『ジャズ・シーンガー』が大ヒットして、各社ともトーキーに舵を切らざるを得なくなる。ハリウッドは大騒ぎになった。トーキー映画の登場が「革命」と呼ばれるゆえんだ。

 このあたりの事情はMGMのミュージカル映画『雨に唄えば』(1952)でも再現されている。撮影所のパーティでトーキー映画のデモフィルムを見た映画関係者たちが、顔をしかめて「ひどい」と言ったのは負け惜しみではなく、それが当時の偽らざる映画人の気分だったのだ。しかし事態は一変する。

 『雨に唄えば』が作られたのは、『ジャズ・シンガー』の公開から25年後だ。撮影所の中にはトーキー革命を実体験したスタッフや俳優たちがまだ大勢残っていて、この革命が生み出した悲劇と喜劇も語り継がれていた。『雨に唄えば』はトーキー革命に見舞われた撮影所についての、再現されたドキュメンタリーでもあるのだ。

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2015年2月14日土曜日

アル・ジョルスン大好き!

 1927年の『ジャズ・シンガー』公開は、映画史の中の大事件だった。この映画が大ヒットしたことで、19世紀末以来、およそ30年続いたサイレント映画の歴史に終止符が打たれたからだ。

 この映画に主演して世界初の「歌う映画スター」になったのが、ブロードウェイの人気歌手アル・ジョルスン(Al Jolson / 1886〜1950)だった。彼はこの後もワーナー製作のミュージカル映画に次々主演して一時代を築く。

 Al Jolsonは「ジョルソン」と表記する方が自然な気もするが(Wikipediaの見出しは「ジョルソン」になっている)、これを「ジョルスン」と書くのもまた映画史的な必然によるものだ。1946年に製作された彼の伝記映画『The Jolson Story』の邦題が『ジョルスン物語』で、3年後に製作された続編『Jolson Sings Again』の邦題が『ジョルスン再び歌う』なのだ。だからWikipediaがどうであろうと、映画ファンは彼をアル・ジョルスンと呼ぶのである。

 ジョルスンは本名エイサ・ヨエルソンというロシア系ユダヤ人なのだが、舞台では顔を黒塗りにして黒人に扮し、「マミー」や「スワニー」といった南部黒人風の曲を朗々とした声で歌いあげた。黒人であることもフェイクなら、彼が歌う南部風の楽曲もフェイクだ。今なら「差別的だ」と批判されそうだが、ジョルスンが舞台に立っていた20世紀初頭にはこうした芸がウケていたのだ。


 白人が顔を黒く塗って黒人に扮し、歌や踊りを披露するエンタテインメントを「ミンストレル・ショー」と呼ぶ。もともとは南北戦争後に、解放された黒人の一部が各地で芸を見せるようになったのがはじまりだが、これが大ウケだったので、そのうち白人たちも顔を黒塗りにして同じような芸をするようになった。それは本物の黒人芸人を戯画化し、その動作や歌を誇張するものになって行く。

 これが舞台芸として広まっていくと、当初の黒人芸人は排除されて「白人芸人による黒人ショー」として定着する。何しろ当時は黒人がステージに立てない時代なのだ。黒人には馬車の荷台の仮設ステージで歌ったり踊ったりすることは許されても、劇場の檜舞台には立てなかった。今ではすっかり消えてしまった芸だが、その様子は『ジョルスン物語』の中で再現されている。映画は1900年代のステージの様子を映画的にドレスアップしているわけだが、何となく往時の様子を偲ぶことができる。

 しかし20世紀初頭のミンストレル・ショーはもはや「過去の芸」になっていて、アル・ジョルスンはその最後の後継者であったようだ。ジョルスンは舞台の持ち芸であるこの黒塗りの黒人を、映画の中でも繰り返し演じている。

 僕はアル・ジョルスンが大好きなのだが、それは彼の黒塗り黒人スタイルの芸が好きなわけではなく、彼の朗々とした張りのある歌声が好きなのだ。ジョルスンの映画はアメリカだとDVDで発売されているが、僕はそれには目もくれずにもっぱらCDでジョルスンの歌を聴いている。国内盤はほとんどないので、全部輸入版。ベスト盤と称するものが山ほど売られているのだが、何枚か買うと必ず何曲かずつ曲がダブってくるんだよな……。

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